写本

□咲くや此花
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あの時、どうして彼女は、自分を選んだのだろうか。
彼女が死んだ今となっては、わからない。
あの時と同じように、しっとりと露を含んだ花を、摘んだ。
傾けると、一粒、二粒、水晶のような雫が、唇へ降りた。
夜明けの冷気に、濡れた唇が冷たい。
ふと、柔らかな花びらを食んでみた。
深い香りと、じんわり広がる苦み。
「…何をしている」
まるで、この花のような人の声が聞こえた。
「知らないんですか、兄さん」
もう一口、苦くて馨しい英を食いちぎる。
「菊の花は、食べられるのですよ」
そう言って、曹植はようやく振り向いた。
不機嫌そうな曹丕の眼差しとかち合う。
寝乱れて下りた黒髪の間から、ぞっとするほど冷たく、美しい視線が覗いている。
――寝所では、もっと優しいのに。
腹立たしくて、手にしたいくつもの花を乱暴に投げ捨てた。
「おい…」
何か言いかけるのを、駆け寄って口づけでふさいでしまう。
唇の隙間から流れ込む、冷たく苦い液体――曹丕は反射的に顔を背けた。
「貴様、何を――」
「毒なんかじゃ、ありませんよ」
いたずらっぽく目を細める弟の表情に、曹丕は動揺を見せたことを後悔した。
「菊花の露です」
ひくり、と兄の体が震えた。
知っているのだ、その意味を。
そして、考えているのだろう。
甄洛が、何を思って、弟にも情けを向けたのか、と。
「ばかな兄さん…」
その青白い頬へ手を差し伸べた。
拒まれはしない。するはずもない。
「泣くな」
素っ気ない優しさが、酷く苦い。
「ほんとうに、ばかみたい…」




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