「あなたは討逆将軍の轍を踏むおつもりか!」 白髯を震わせた老公の一喝に、広間の喧騒は瞬く間に張り詰めた沈黙へと変わった。 この十年来、誰も口にしたことのない、暗黙の禁句。 それを敢えて、張昭は口にした。 剛毅硬直ではあるが、思慮深く人の名誉を重んじる老公が、これほど直截な物言いをしたことなどあったか。 人々が固唾を呑んで見守る中、言葉を向けられた周瑜は、しかし、引き下がらない。 「私は、勝機があるからこそ、活路を開くべきであると主張するのです。大であることが必ずしも強であるとは限らない――至大であるからこそ、諸所の綻びも多い。それを一度に被れば、どんな軍も弱体を免れ得ないことは道理です。今度の戦は、華北と江南の風土の差異、遠征の軍を水上戦で迎え撃つ有利。戦の基は我々にあります」 だが、それを遮るように、老公は呻いた。 「都督、あなたは戦に飽きるべきなのだ!」 心戦 「いやはや、今日の張公は、いつもに増しておっかなかったですなあ」 本気とも冗談とも区別の付かぬ口調に、周瑜は僅か、目元を和ませる。 「降伏論にも一理ある。張公は既に、中原で多くの戦を目の当たりにしてきた。曹操の力量、勢い、全てを見た上で、勝ち目は限りなく低いと判断したのだろう。あの方は、そういう方だ。故に、危ぶんでおられる。私の意思が、恣意であり私怨ではないかと」 「それを仰るなら、俺だってそうでしょうよ。俺の大言壮語も、どうやら癖を見抜かれたらしい」 魯粛は、己がそうと確信するまでは、黙って大局を見つめ続ける男だ。勝算の無い戦に「勝てる」とは、口が裂けても言わない。 だが、周瑜は微かに眉宇を寄せ、悲しげに首を振るだけだった。 「いや」 「…どうした、公瑾どの」 どこか余裕を失ったようにすら思える、その仕草に、魯粛もつられたように眉をしかめた。 「先刻、我らは戦に飽きるべきなのだと言われましたな」 「そうだな」 「それは、あなたにではなく、私に向けられた警告だろう」 ああ、と魯粛は得心した。 「伯符どのとの約束か」 「確かに、私怨と呼ばれても仕方がない。……だが…私は捨てたくないのだ。後一歩…後一歩で、この地は平らげられ、次は中原……そう、思い描いていたのに…」 続く激情を呑み込み、周瑜はうつむく。 この10年、戦場に出るたび、国土を駆けるたび、幾度となく去来した思い。 もう決して叶わぬ思いは、あの日、柩の前で哭き尽くしたはずなのに。 「ここは私の約束の地だ。伯符が生まれ育ち、戦い、そして死んでいった。その地を曹操に奪われるというなら、私は命を賭して戦う。戦い、そして守る」 「それが、あんたの今の生きがいですか」 「いけませんか」 噛み付くような言葉に、しかし、魯粛は嬉しくなった。 先ほどとは別人のような闘志が、眼前の美しい都督に宿っている。 「いけないことがあるものか。いっそ漢らしい。……欲を言えば、もっと壮大に遺志を実現したらどうです」 その手が、水平線をおおらかに薙ぐ。 「江東、江南と呼ばれる全ての地域を手に入れ、南方を我が君の版図とする、とね」 にやりと笑う魯粛は、確かに、眼前の危地を乗り越えた先を信じている。 周瑜は目をしばたかせたが、すぐにくすくすと忍び笑いを漏らした。 「あなたという人は…!」 「はは、緊張感が無いかね?」 「大事な戦の前だというのに」 「いいじゃないか、あんたがようやく笑った」 目元を和ませる魯粛に、周瑜ははたと気付いた。 「ああ、これは…」 申し訳ない、と素直に謝する。 「こんな顔をすべきではないな…大事な戦の前に…」 赤い夕日を浴びて、泣き笑いのように微笑む。 その笑顔を眩しそうにみやると、魯粛もにんまりと頷く。 「そうとも、大事な戦の前だ」 戦え それこそが、国を、 ――愛を守るのだと。 了 |