写本

□心戦
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「あなたは討逆将軍の轍を踏むおつもりか!」
 白髯を震わせた老公の一喝に、広間の喧騒は瞬く間に張り詰めた沈黙へと変わった。
 この十年来、誰も口にしたことのない、暗黙の禁句。
 それを敢えて、張昭は口にした。
 剛毅硬直ではあるが、思慮深く人の名誉を重んじる老公が、これほど直截な物言いをしたことなどあったか。
 人々が固唾を呑んで見守る中、言葉を向けられた周瑜は、しかし、引き下がらない。
「私は、勝機があるからこそ、活路を開くべきであると主張するのです。大であることが必ずしも強であるとは限らない――至大であるからこそ、諸所の綻びも多い。それを一度に被れば、どんな軍も弱体を免れ得ないことは道理です。今度の戦は、華北と江南の風土の差異、遠征の軍を水上戦で迎え撃つ有利。戦の基は我々にあります」
 だが、それを遮るように、老公は呻いた。
「都督、あなたは戦に飽きるべきなのだ!」



     



「いやはや、今日の張公は、いつもに増しておっかなかったですなあ」
 本気とも冗談とも区別の付かぬ口調に、周瑜は僅か、目元を和ませる。
「降伏論にも一理ある。張公は既に、中原で多くの戦を目の当たりにしてきた。曹操の力量、勢い、全てを見た上で、勝ち目は限りなく低いと判断したのだろう。あの方は、そういう方だ。故に、危ぶんでおられる。私の意思が、恣意であり私怨ではないかと」
「それを仰るなら、俺だってそうでしょうよ。俺の大言壮語も、どうやら癖を見抜かれたらしい」
 魯粛は、己がそうと確信するまでは、黙って大局を見つめ続ける男だ。勝算の無い戦に「勝てる」とは、口が裂けても言わない。
 だが、周瑜は微かに眉宇を寄せ、悲しげに首を振るだけだった。
「いや」
「…どうした、公瑾どの」
 どこか余裕を失ったようにすら思える、その仕草に、魯粛もつられたように眉をしかめた。
「先刻、我らは戦に飽きるべきなのだと言われましたな」
「そうだな」
「それは、あなたにではなく、私に向けられた警告だろう」
 ああ、と魯粛は得心した。
「伯符どのとの約束か」
「確かに、私怨と呼ばれても仕方がない。……だが…私は捨てたくないのだ。後一歩…後一歩で、この地は平らげられ、次は中原……そう、思い描いていたのに…」
 続く激情を呑み込み、周瑜はうつむく。

 この10年、戦場に出るたび、国土を駆けるたび、幾度となく去来した思い。
 もう決して叶わぬ思いは、あの日、柩の前で哭き尽くしたはずなのに。

「ここは私の約束の地だ。伯符が生まれ育ち、戦い、そして死んでいった。その地を曹操に奪われるというなら、私は命を賭して戦う。戦い、そして守る」
「それが、あんたの今の生きがいですか」
「いけませんか」
 噛み付くような言葉に、しかし、魯粛は嬉しくなった。
 先ほどとは別人のような闘志が、眼前の美しい都督に宿っている。
「いけないことがあるものか。いっそ漢らしい。……欲を言えば、もっと壮大に遺志を実現したらどうです」
 その手が、水平線をおおらかに薙ぐ。
「江東、江南と呼ばれる全ての地域を手に入れ、南方を我が君の版図とする、とね」
 にやりと笑う魯粛は、確かに、眼前の危地を乗り越えた先を信じている。
 周瑜は目をしばたかせたが、すぐにくすくすと忍び笑いを漏らした。
「あなたという人は…!」
「はは、緊張感が無いかね?」
「大事な戦の前だというのに」
「いいじゃないか、あんたがようやく笑った」
 目元を和ませる魯粛に、周瑜ははたと気付いた。
「ああ、これは…」
 申し訳ない、と素直に謝する。
「こんな顔をすべきではないな…大事な戦の前に…」
 赤い夕日を浴びて、泣き笑いのように微笑む。
 その笑顔を眩しそうにみやると、魯粛もにんまりと頷く。
「そうとも、大事な戦の前だ」


 戦え

 それこそが、国を、
    ――愛を守るのだと。





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