写本

□河北一夜
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「おい、何をする…」
 袷から差し込まれた手が、胸元をゆっくりとまさぐる。
 その動きが示す意図は、あまりに明白だが、今の公孫瓚にとっては迷惑極まりない。
「今日は、無理じゃ…」
 ぎろりと睨んでくるが、普段よりも紅い目元では、いかにもか弱く、力ない風情だ。
「だめだな、そんなに可愛らしいお前が悪い」
「ばかか、貴様…」
 二人称から敬意の欠片も無くなってしまったが、もう止まらなかった。
「やめよ…よせ、今日は本当に…」
 気が乗らない、と訴える声も無視して、熱い胸元へ食いついた。
「……本初…重いぞ…」
 いつもと同じように愛撫しているだけなのだが、公孫瓚はぐいぐいと胸板を押し退けようとする。
「大人しくしろ、伯珪――」
「違う、本当に苦しい…」
 仕方なく体を離してやれば、軽く咳き込んで、ふうっと息を吐く。
 言ったとおり、本当に苦しかったようだ。
「これでは、俺一人が走っているようではないか」
 情けなさそうな、つまらなそうな、どこか拗ねたような口調に、溜息が出た。
「だから、気が乗らんと言っただろう…」
 正直、体もだるいし、まだ熱っぽい。会話だけで精一杯なのだ。形だけでも拒まなかったことを褒めてもらいたいくらいだ、と思った。
「疲れた、俺は寝るぞ」
 襟を申し訳程度に合わせると、布団を肩まで引き上げる。
 さすがに背は向けないが、もう情事の名残など欠片もない雰囲気ができてしまった。
 気だるさと熱とで、早くもとろとろとした眠りが押し寄せてくる。
 うつらうつらとしていれば、ようやく諦めたのか、隣にもぐりこんでくる気配がした。
「他の妾ならば、演じてでも喘いで、最後まで勤めようとするものだがな」
「だろうな」
「お前は、そんな演技はしない」
「当たり前じゃ。俺はお前を繋ぎ止める必要も無い」
 にべもなく、飾りもしない答えに、相手はただ苦笑を浮かべるばかりだ。
「鄒忌にでもなったつもりか、本初。それとも、威王か?」
 穏やかに揶揄する声は、しかし、常よりも小さく、低かった。
 仕方あるまい、相手は病人だ、と己に言い聞かせて、眠る体へと腕を回す。
 そのぬくもりを感じ取ったのか、睡眠と熱で温かな体はもぞもぞと丸まりながら、すり寄ってきた。
(こんな仕草は可愛らしいのになあ…)
 銀色の針を含んだような赤い瞳が開いているときは、決して、すり寄ることも甘えることもしない。
 だからこそ、媚態と、その裏に公然と秘められた欲望、権勢のしがらみに倦んだ自分は惹かれるのだが。

――鄒忌か、威王か。

 公孫瓚の言葉は、内寵の思惑を指しただけではあるまい。
 家内の瑣事のために、大局を放棄して引き返す、自分の判断まで皮肉っているのだろう。
「明日には、ちゃんと戻る。だから嫌ったりするな…」
 誰も見ることのない、覇者の翳りであった。





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