写本

□河北一夜
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 目覚めてすぐ、視界に入った人物に唖然とした。
「なぜ、お前がここにいる…」
 驚くというよりも、呆れた。
「お前が病に倒れたと聞いてな」
 こともなげに答える相手に、呆れたついでに何故か自分のほうが情けなくなった。
 公孫瓚は、熱のせいばかりではない、深く重い溜息をついた。
「戦はどうした、本初…」
 非難がましい視線に、袁紹は憮然とした顔になる。
 もとより喜ぶようなことはないとわかっている、ただ、驚きながらも受け容れてくれると思っていたのだが。
「わざわざ戦地より舞い戻ってまで、病床に駆けつけたというのに」
「痴れ者。たかが家内の病人一人のために、戦線を放棄する指揮官がおるか」
 詳細は知らないが、戦線の指揮を蔑ろにした時点で、怒ってよいと判断した。
 見舞いを喜ぶどころか、戦線放棄をきつく咎め立てるあたり、公孫瓚は骨の髄まで武将であった。
「お前、今度の戦の重要さを解っているのか」
 溜息混じりに問われ、さすがに袁紹もむっと病人を睨み付ける。
「解っている。河北…否、華北を鎮める、大いなる一歩、擾乱を収める階の戦」
「ならば、何故、帰ってきた」
 じろりと睨まれ、袁紹は珍しく視線を泳がせた。
「本初、悪いことは言わぬ、すぐ本営へ戻れ」
 頭がぼうっと熱く、重い。上がりかける熱が、思考を再び眠りの淵へ引きずり込もうとする。
「おい、伯珪…大丈夫か…」
 熱のため無意識に眉をひそめる公孫瓚へ、袁紹は思わず身を乗り出した。
 再び開いた瞳は相変わらず大きくて、つやつやと光を放つ。とはいえ、今日のそれは熱に潤んでいるためでもあるのだが。
「本初」
「何かな?」
「ぐずぐずするな…曹操はすぐにでも動くぞ…」
 有能だが煙たい監軍と全く同じ言葉に、袁紹の目が不愉快そうにまたたく。
 だが、もとより公孫瓚は、そんな相手の仕草など顧慮しない。
「待ってはならぬ。兵站と物量を維持し、対峙する間も与えず、早々に叩け」
 そこまで言うと、辛そうに目を伏せた。身の内へ沈澱する熱が鬱陶しくて、また深々と溜息をつく。
 その悩ましいまでの表情、仕草に、思わず手が伸びた。





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