写本

□雰容
1ページ/1ページ



「假子」

 嫌な声だ、と思った。
 そうやって侮蔑をあらわにする声は、もとがどんなに美声であっても、良い響きにはならない。
 美しくない。
「なんですか、中郎将さま」
 作り笑いで振り返る。
 というのも、それが相手にとって最悪の対応だということを理解していたから。
 案の定、曹丕は深々と眉間にしわを寄せている。彼は、薄い唇をこじ開けるようにして言葉を続ける。
「お前、子建になんの用だ」
 おいでなすった、と思った。
 何晏はわざとらしく微笑んでみせる。すると、曹丕の表情がますます険しくなるのだ。
「おや、兄弟が特に用もなく会ってはいけないのですか?」
 曹丕の薄い眉が、ひくりと震えた。まるで、尻尾を踏まれた猫のようだ、と思った。
「笑止、貴様が我々の兄弟だと」
「違いませんよ。お義父様が私をそう遇してくださる限り」
 大きな音が響く。
 曹丕が凄まじい形相で朱塗りの柱を殴りつけた。
「図に乗るな。白粉臭い才子気取りが」
 冷静沈着として有名な副丞相が、実は相当な神経質で気短だというのは、存外に知られていない。
「子建に手出しは許さんぞ。妙な薬を飲ませるのもな」
「しませんよ。……もし、私がそんなことをしたら?」
「知りたいのか。楽に殺してもらえるとは思わんことだ」
「恐ろしい人…。血が繋がらないとはいえ、弟相手にそこまで言いますか」
「血縁がないのをいいことに義兄を付回す貴様には、相応しい」
 本性を見た、とでも言うような表情で、何晏は曹丕を見やった。
「あなたに言われたくありませんよ」
 途端、曹丕の眼差しが射殺すように尖った。

「同腹の弟に、親愛以上の思惑を抱くような方には、ね……」

 知ってるんですよ、とばかりに嗤ってやる。
 曹丕の顔から表情が消える。追い詰められると却って無表情になるのは、彼が知らず知らずのうちに身に着けた政治的な防衛手段だ。高い立場にあるものは、決して冷静さを欠くことは許されない。
 それが、反対に彼の心を見抜く鍵となるのは皮肉だった。
 溜息をついて背を向けた“義兄”に興味を失い、何晏は何事もなかったかのように歩き出した。





[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ