広い広い江の中州に、一つの台閣が建っている。 そこはいつも静かで、時折、温かな灯りが見えることもある。 魏の将兵も呉の将兵も、そこを「鴻臚寺」と呼んで、無闇には近づかなかった。 そこは、たった二人のために用意された、束の間の安息の地であるから。 「ずいぶんと冷え込みますね」 灯心を足しながら、羊祜は呟いた。窓を閉ざし、屏風を立てても、初冬の冷気はしんと床に滞っている。 「お寒くありませんか?」 気遣わしげに、向かいの陸抗へ問う。 すでに絹打ちの袍を二枚も掛けられている陸抗は、くすりと笑って首を振った。 「大丈夫ですよ。3枚も綿入れを着たら、着膨れてしまいます」 そう言われて、はたと陸抗の姿を見、羊祜は赤面した。 「これは面目ない…」 「いいえ、ありがたいことですよ」 どうぞ、と酒器を掲げられて、羊祜はそっと杯で享ける。 穏やかな会話の何気なく途切れた端へ、その言葉は接がれた。 「しばらく、建業へ戻ることになりました」 羊祜の手が止まった。それまで微かな笑みを溜めていた唇がこわばり、柳色の眉があっという間に歪んだ。 「何故…?」 「襄陽での状況を直接報告せよとの、陛下のお言葉がありましたので」 「しかし……このような時期にですか?」 全ての物事は春と秋にまとめられ、冬へは持ち越さぬものだ。 現に、羊祜も陸抗も、秋にはそれぞれの都へ戻っていた。 それなのに、どうして、今また建業へ帰還せよというのか。羊祜には悪い想像しか浮かばなかった。 「私のせいです…」 蒼白になった羊祜の呟きに、陸抗は慌てて首を振る。 「叔子どの、それは違う」 「ならば、どうして、このような時期に召還されるのですか」 「陛下は、気まぐれでいらっしゃいますから…」 意外にも、陸抗は落ち着いている。慣れているのだろう。 それでも、羊祜は暗澹たる思いをぬぐえなかった。 呉の皇帝の凄惨な行状は、前線を統率する羊祜にも逐次、もたらされていた。 人を生きながら酷い苦しみに遭わせ、血塗れでのた打ち回る様子を平然と眺めている。 呉主の狂気は、母から聞いた董卓の所業を髣髴とさせた。 そんな神経の持ち主の下へ、陸抗は帰っていくというのだ。 「幼節どの」 いてもたってもいられず、羊祜は陸抗の肩をつかんだ。 「もし、呉帝から私のことを聞かれたら、全て私のせいにして下さい。決して、交わりをお認めにならぬよう…」 「いけません、それでは逆効果です」 陸抗は静かに首を振る。 「陛下は、人の心の機微に聡いお方……偽りを申し立てようものなら、すぐに見抜かれます」 それに、と、幾分か声が低まる。 その囁きを聞き漏らさぬよう、羊祜は陸抗を抱きしめ、耳元を寄せた。 「それに、私たちが耳目を持つように、陛下も耳目をお持ちなのですから…」 「……確かに…」 答えながら、羊祜の手が不安げに青い袍を握る。 「どうか、ご心配なく。私にも、お味方くださる人はおります」 そっと抱擁を解くと、いまだ不安げな表情のままの羊祜へ、優しく微笑んで見せた。 |