写本

□晩栄
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 広い広い江の中州に、一つの台閣が建っている。
 そこはいつも静かで、時折、温かな灯りが見えることもある。
 魏の将兵も呉の将兵も、そこを「鴻臚寺」と呼んで、無闇には近づかなかった。
 そこは、たった二人のために用意された、束の間の安息の地であるから。

「ずいぶんと冷え込みますね」
 灯心を足しながら、羊祜は呟いた。窓を閉ざし、屏風を立てても、初冬の冷気はしんと床に滞っている。
「お寒くありませんか?」
 気遣わしげに、向かいの陸抗へ問う。
 すでに絹打ちの袍を二枚も掛けられている陸抗は、くすりと笑って首を振った。
「大丈夫ですよ。3枚も綿入れを着たら、着膨れてしまいます」
 そう言われて、はたと陸抗の姿を見、羊祜は赤面した。
「これは面目ない…」
「いいえ、ありがたいことですよ」
 どうぞ、と酒器を掲げられて、羊祜はそっと杯で享ける。
 穏やかな会話の何気なく途切れた端へ、その言葉は接がれた。
「しばらく、建業へ戻ることになりました」
 羊祜の手が止まった。それまで微かな笑みを溜めていた唇がこわばり、柳色の眉があっという間に歪んだ。
「何故…?」
「襄陽での状況を直接報告せよとの、陛下のお言葉がありましたので」
「しかし……このような時期にですか?」
 全ての物事は春と秋にまとめられ、冬へは持ち越さぬものだ。
 現に、羊祜も陸抗も、秋にはそれぞれの都へ戻っていた。
 それなのに、どうして、今また建業へ帰還せよというのか。羊祜には悪い想像しか浮かばなかった。
「私のせいです…」
 蒼白になった羊祜の呟きに、陸抗は慌てて首を振る。
「叔子どの、それは違う」
「ならば、どうして、このような時期に召還されるのですか」
「陛下は、気まぐれでいらっしゃいますから…」
 意外にも、陸抗は落ち着いている。慣れているのだろう。
 それでも、羊祜は暗澹たる思いをぬぐえなかった。

 呉の皇帝の凄惨な行状は、前線を統率する羊祜にも逐次、もたらされていた。
 人を生きながら酷い苦しみに遭わせ、血塗れでのた打ち回る様子を平然と眺めている。
 呉主の狂気は、母から聞いた董卓の所業を髣髴とさせた。

 そんな神経の持ち主の下へ、陸抗は帰っていくというのだ。
「幼節どの」
 いてもたってもいられず、羊祜は陸抗の肩をつかんだ。
「もし、呉帝から私のことを聞かれたら、全て私のせいにして下さい。決して、交わりをお認めにならぬよう…」
「いけません、それでは逆効果です」
 陸抗は静かに首を振る。
「陛下は、人の心の機微に聡いお方……偽りを申し立てようものなら、すぐに見抜かれます」
 それに、と、幾分か声が低まる。
 その囁きを聞き漏らさぬよう、羊祜は陸抗を抱きしめ、耳元を寄せた。
「それに、私たちが耳目を持つように、陛下も耳目をお持ちなのですから…」
「……確かに…」
 答えながら、羊祜の手が不安げに青い袍を握る。
「どうか、ご心配なく。私にも、お味方くださる人はおります」
 そっと抱擁を解くと、いまだ不安げな表情のままの羊祜へ、優しく微笑んで見せた。



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