写本

□孤寒の人
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 人がいない。
 それは劉備が心底から痛感していることだった。
 諸葛亮を得るまでは、参謀らしい参謀すらいなかった。劉備自身が参謀役を兼ねざるを得なかったのだ。
 いや、相談さえすれば、この友人は有益な知恵を貸してくれる。くれることはくれるのだが、必要以上は答えてくれないのだ。
「伯珪兄がもう少し知恵袋然としてくれれば、もっと楽になるんだけどなあ」
 恨みがましそうに見やったが、公孫瓚は笑いながら首を振る。
「俺に謀は向いていない。軍略とやらも苦手じゃ」
「…よくそれで10年も国が治まりましたね」
「それが天運というものよ」
「嘘ばっかり…」
 天運で物事が決まるなら、あくせくと勢力強化に努める必要などない。
「いつまで昔のことを根に持ってるんです」
「自戒じゃ。俺の性格では一州を保つだけが限界」
「私に言わせれば、今のあなたは絶対に国を持たせちゃならない人間ですよ。やりあう相手が一つ増える」
「そう見えているなら、それでもいい」
「伯珪兄」
「俺には、もう天下を夢見るだけの気概も……いや、国を治めるだけの覇気が持てぬ。いわば、俺の目は隠者の目よ」
 何か言いかけて、しかし、劉備は止めた。
 十年前、覇者の経略を目指した白馬長史は、既に灰燼に帰してしまったのかもしれない。
 そして、冷たく、表情に乏しく、それでいて非常に聡明な見識の、孤高の魂の持ち主が、ここにいる。
「俺は何もかも喪ってしまった。今、俺にあるのは、この身一つ、心一つ」
「伯珪…」
「だが、お前は違う、玄徳。劉玄徳には謀るべき天があり、治めるべき地があり、統べるべき人がいる」
 紫石の瞳が、ぐっと劉備を捉えた。
「劉玄徳に尋ねたい」
 その静謐とした気迫に、劉備は腹へ力を入れた。
「はい」
「“今”お前が語らうべきは、誰だ?」
「語らうべき…」
「お前が必要とするのは、隠者の目か、覇者の知恵か」
 問われたなら、答えは最初から決まっている。

「天下を釣る、鉤だ」

 どうだと言わんばかりの悪童のような劉備の表情に、公孫瓚は目を細める。
「言ってくれる」
 この不撓の男は、隠者の目も覇者の計略も欲しいというのだ。
「ええ、言ってやりました」
 欲しがるのは仕方がない。
 眼前の男は紛れもなく、隠士の達観を備えた将なのだ。


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