――行けよ行け、我が恋人よ。そっと歩み、静かに進め。扉へ向かい、私を連れて。 曹沖は歩みを止めた。腕に抱えた書簡が重かったのと、美しくも哀しい響きの歌が聞こえたために。 どこか、漢人の女とは違う、澄んで張り詰めた韻律に惹かれた。 しかし、声に引かれて廊下を進む足は、二つの影を見つけて思わず立ち止まった。 歌声の先には、四つ上の異母兄・植と、その愛妾がいた。 兄が正室である崔夫人のもとへ帰らず、この女を異常なほど寵愛しているという噂は、曹沖の耳にも入ってくる。 こうして実際の光景を目にすると、何とはなしに気まずくなった。 兄はいつものように琵琶を爪弾き、女のほうは箜篌――まだ目新しい胡楽を携えて。女の荑指が瓏とした音を奏でるたび、その丹脣は嫋々と哀切な音を紡ぐ。 ――行けよ行け、わが恋人よ。そっと歩み、静かに進め。往き往きて、我がもとへ帰れ。 すると、不意に兄がこちらを振り返った。 「おや、倉舒…」 珍しい、という表情をした曹植は、傍らの愛妾に何事か囁く。すると、女は箜篌を置いて跪拝した。 「あの…、今の歌が気になって…」 「ほう。お前の好みとは知りませんでした」 曹植は薄く笑うと、康姫、と女に声をかける。 「倉舒が、お前の歌を聞きたいそうだ。歌ってあげなさい」 康姫と呼ばれた女が顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。その艶麗な美貌を目の当たりにして、曹沖は顔を赤らめる。子どもっぽく見られただろうか、と気になって兄のほうを見れば、唇に笑みを溜めたまま、素知らぬ顔で弦の調子を整えている。 「どうして、“康姫”とお呼びになるのですか?」 慌てて話を振ると、曹植は調弦の手を休めて答えた。 「これは康人なのですよ」 なるほど、康姫の豊かに結い上げた髪は暗い茶色、長い睫毛に縁取られたつぶらな瞳はカワセミの翠をしている。 「父上から賜ったのです。“箜篌の音色が好かぬ。お前なら好みだろう”。そう仰って」 父は最初から、この美しき異国の歌妓を兄に与えるつもりだったのだろう、と曹沖は思った。 兄は兄で、知らぬふりをして面白がっている。 それは父と子のやり取りというより、才人同士が互いの性質に同調して、戯れ楽しんでいるようなものだ。 と、用意ができたのか、康姫が箜篌を静かに爪弾く。 絶え間なくかき鳴らされる哀切な調べは、打ち寄せる川辺の波に似て、また、雨を運ぶ風の音に似て。その間隙を縫うように、高く澄んだ声が響く。 行けよ行け、我が恋人よ そっと歩み、静かに進め 扉へ向かい、私を連れて 往き往きて、健やかに帰れ 願わくば、かの丘にて大いに泣かん 流涕は臼を引くこと可なり 釣竿、苧環、何するものぞ 糸車を充てて、鋼の剣を買わんと欲す 自分が、父から溢れんばかりに愛情を注がれている自覚はある。 だが、兄へ向けられる愛情というのは、同じ我が子へ向ける愛情であっても、質が違う気がしてならない。 自分の受ける愛情は、幼子へ向けられる親の愛そのもの。 兄に注がれる愛情は、才能を受け継いだわが子へ、己と同じ性を感じて愛でる。大人の親愛とでもいおうか。 自分は、そうやって、認められた上での愛情を受けることはあるのだろうか。 あまりにも聡明で、それと同じくらいに心優しい子どもが、はじめて、そう考えた。 了 |