写本

□紅菲
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――行けよ行け、我が恋人よ。そっと歩み、静かに進め。扉へ向かい、私を連れて。


 曹沖は歩みを止めた。腕に抱えた書簡が重かったのと、美しくも哀しい響きの歌が聞こえたために。
 どこか、漢人の女とは違う、澄んで張り詰めた韻律に惹かれた。
 しかし、声に引かれて廊下を進む足は、二つの影を見つけて思わず立ち止まった。
 歌声の先には、四つ上の異母兄・植と、その愛妾がいた。
 兄が正室である崔夫人のもとへ帰らず、この女を異常なほど寵愛しているという噂は、曹沖の耳にも入ってくる。
 こうして実際の光景を目にすると、何とはなしに気まずくなった。
 兄はいつものように琵琶を爪弾き、女のほうは箜篌――まだ目新しい胡楽を携えて。女の荑指が瓏とした音を奏でるたび、その丹脣は嫋々と哀切な音を紡ぐ。

――行けよ行け、わが恋人よ。そっと歩み、静かに進め。往き往きて、我がもとへ帰れ。

 すると、不意に兄がこちらを振り返った。
「おや、倉舒…」
 珍しい、という表情をした曹植は、傍らの愛妾に何事か囁く。すると、女は箜篌を置いて跪拝した。
「あの…、今の歌が気になって…」
「ほう。お前の好みとは知りませんでした」
 曹植は薄く笑うと、康姫、と女に声をかける。
「倉舒が、お前の歌を聞きたいそうだ。歌ってあげなさい」
 康姫と呼ばれた女が顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。その艶麗な美貌を目の当たりにして、曹沖は顔を赤らめる。子どもっぽく見られただろうか、と気になって兄のほうを見れば、唇に笑みを溜めたまま、素知らぬ顔で弦の調子を整えている。
「どうして、“康姫”とお呼びになるのですか?」
 慌てて話を振ると、曹植は調弦の手を休めて答えた。
「これは康人なのですよ」
 なるほど、康姫の豊かに結い上げた髪は暗い茶色、長い睫毛に縁取られたつぶらな瞳はカワセミの翠をしている。
「父上から賜ったのです。“箜篌の音色が好かぬ。お前なら好みだろう”。そう仰って」
 父は最初から、この美しき異国の歌妓を兄に与えるつもりだったのだろう、と曹沖は思った。
 兄は兄で、知らぬふりをして面白がっている。
 それは父と子のやり取りというより、才人同士が互いの性質に同調して、戯れ楽しんでいるようなものだ。
 と、用意ができたのか、康姫が箜篌を静かに爪弾く。
 絶え間なくかき鳴らされる哀切な調べは、打ち寄せる川辺の波に似て、また、雨を運ぶ風の音に似て。その間隙を縫うように、高く澄んだ声が響く。

  行けよ行け、我が恋人よ
  そっと歩み、静かに進め
  扉へ向かい、私を連れて
  往き往きて、健やかに帰れ
  願わくば、かの丘にて大いに泣かん
  流涕は臼を引くこと可なり
  釣竿、苧環、何するものぞ
  糸車を充てて、鋼の剣を買わんと欲す

 自分が、父から溢れんばかりに愛情を注がれている自覚はある。
 だが、兄へ向けられる愛情というのは、同じ我が子へ向ける愛情であっても、質が違う気がしてならない。
 自分の受ける愛情は、幼子へ向けられる親の愛そのもの。
 兄に注がれる愛情は、才能を受け継いだわが子へ、己と同じ性を感じて愛でる。大人の親愛とでもいおうか。
 自分は、そうやって、認められた上での愛情を受けることはあるのだろうか。
 あまりにも聡明で、それと同じくらいに心優しい子どもが、はじめて、そう考えた。




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