写本・第二

□羊の帰路
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光の中にいると言いながら自分の兄弟を憎む者は、今このときに至るまで闇の中にいます。

自分の兄弟を愛する者は光の中にとどまっており、その人につまづきとなるものはありません。

しかし、自分の兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩んでいます。
そして、自分がどこへ行くのかを知りません。
闇がその人の目をくらましているからです。


   ―ヨハネの第一の手紙 
       2章9節〜11節―








「棄教するそうだな」
「ああ」

なぜか、とは、小西は聞かない。
おおよその事情など、豊家の高級官僚ならば察しはつく。
「太閤殿下のご命令だ、従わぬわけにはいくまい」
「そうか」
小西は素直にうなずいた。
「卿はどうなのだ」
「わしか」
棄てぬ、と、ほりの深い顔が笑った。
「それがわしの導き、よすがであるからな」
そう、小西は言う。

やがて毀れることになるであろう、礼拝堂の樫の長椅子に、ふたりして腰掛けた。
師走の礼拝堂は、寒い。
しんしんと静かに冷たい神域で、しばらくふたりは無言だった。

「私には、よく解らなくなってきた」
「何がだ?」
「主の御前には、衆生は皆、平等であるという」
「ふむ…」
「だが、耶蘇教を奉ずる国でさえ、厳格な身分がある」
「問答のようじゃな」
くつくつと小西は笑った。ふとしたとき、言葉の端をやわらかい上方訛りがかすめることがある。
「人が世を作るには、どうしても身分ができる。だが、主の御目から見れば違うということではないか」
深く悲しい目が、薄暗い穹隆を仰いだ。
「我らがいかに世俗の地位を築いたとて、主の御目には塵のごときものじゃ。人は塵から取られた、ゆえに死ねば塵に帰る。ただ、後には善と悪が積まれておる。それが、主にとっての人の真ということであろう」

「犬は己の反吐に戻り、豚は洗われて再び泥の中を這う…か」
官兵衛が、ぼそりと呟く。
正しく知らずにいるならば、正しく知って後、聖なる掟から離れるよりもましだと、聖典は言う。
人は飯のみで生くるものではない。しかし、官兵衛も小西も“食わさねば”ならぬし、食わねばならぬ。
それゆえに戦があり、勝つにはどうあっても殺さねばならぬ。
その矛盾は、神の目にどう映るのか。

「畢竟、それは世を捨てよということかもしれぬ」
官兵衛はあっさりと言った。
「だが、卿も私も、今更世捨て人などにはなれぬ。ゆえに、僅かでも徳を――善を積むがよかろうて…」
積徳が流した血に勝るかなど、わかるはずもないが、その心すら捨てれば、それこそ畜生にもおとる悪行であろう。

官兵衛は立ち上がる。
そのまま、ゆっくりと小西のほうを向いた。

「キリストの名のために非難されるならば、汝は幸いである。栄光なる神の御霊が汝の上に宿りたれば」

朗々と言うほど大きくはない。
しかし、聖堂を厳かに満たすに相応しい。

「祈れよ、互いのため。己の罪をあらわに告白し、互いのために祈れよ。それは汝らが癒されんがためである」

そこまで述べると、静かに唇を引き結んだ。
青白い指が伸び、小西の胴服のあわいからロザリオを引きずり出す。

十字架を握り締め、深く優しい悲しみの淵を覗き込みながら、官兵衛は言った。


「だが、卿らは誰も、人殺し、盗賊、悪行、他人の事に干渉する者となり、そのゆえの苦しみに遭うことがあってはならぬ」


行長は、身じろぎ一つしなかった。
ただ数度、深いまなざしが哀しくまたたいた。


ロザリオを襟元へ戻すと、指は添えたままで、言った。
「卿に、これらの言葉を贈る」
官兵衛は身を離した。
「お別れだ、アウグスティノ」
小西はまじまじと官兵衛を見つめたが、静かにうなずいた。

「さようなら、シメオン……孝高殿」



2009/12.24

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