写本・第二

□清風
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「遠駆にゆく」
そう言い残し、主人はあっという間に欄干を飛び越えていった。
追いつこうなどと、司馬懿は端から諦めている。
それでも行き先は聞かねばと厩舎へ足を向けたとき、高らかな嘶きが聞こえ、それも諦めざるを得なかった。

束縛の多い生活の反動からか、曹丕は遠駆けを好んだ。
目映く晴れ渡った青天の日など、午後の執務もそこそこに飛び出していく。
一度、遠駆に出る前の曹丕を目にしたことがある。
毛艶の良い駿馬に騎り、曠野を駆ける期待に高ぶった笑顔を見せる、その生気に満ちた表情を見たとき、司馬懿は何も言わず去った。
あれほど解放された主人の表情は、見たことがなかった。
少しでも長く、あの表情でいさせて差し上げたい、と、心から思った。

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騎射を得意とする人物が乗り手の駿馬は、己が脚力を余すところなく解放し、人馬一体となって、曠朗たる蒼穹と原野のはざ間を駆け抜けていく。
身に叩きつける突風、ごうごうたる音、形もなく流れ去っていく視界。
その全てを感じ取り、己が馬と風に溶けていく感覚すら覚えた。

心地よい

何もかもが心地よかった。

安らぎの中から生まれる感情の昂ぶり。

――――ああ、私は生きているのだ。

人が生命に満ちる瞬間。




小さな池のほとりで、一人と一頭が静かに憩っていた。
躍動に火照った体を清水で静め、ここまでを一気に駆けてきた愛馬の肌を撫でてやる。
「次は、いつになるか」
ぽつりと呟く声が聞こえたのかどうか。
「また、来よう」
駿馬は主に首を摺り寄せた。





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魏世祖文帝・追悼企画文でした。




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