写本・第二

□知己知彼
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「これで、満足?」

朝靄に包まれた回廊で、ぽつりと曹植は呟いた。
白玉の欄干にひじを付き、いつ晴れるとも判らない霞んだ向こうを眺めている。
その傍らに、もう一つ、影がある。
そちらへ、曹植はちらりと目を動かす。
「これで、満足なんだな」
もう一度、言葉を繰り返すと、傍らの影は感情のない声で応じる。
「仰る意味が、わかりかねます。公子様」
司馬懿の人を食ったような返答に、曹植は鼻を鳴らす。
「よく言う。あなたと兄上が、私たちを警戒してるのはよく判ってるのに」
それは違います、と、司馬懿は訂正した、
「正確には、私が、です」
否定はしないのだ。つくづく、信用ならない。
「あなたは私を信用しておいでではない」
「……今の発言を聞いて、あなたを信用すると思うか?」
「十中八九、思わないでしょうな」
のらりくらりとやりかわす老獪さに、苛々した。

ふと、いたずらめいた考えが頭にひらめく。
「あなたが国を欲しがっていること――」
言いつつ、硬質で無表情な司馬懿の顔を見やる。
「元仲殿に言えば、どうなるか――」
だが、青白い顔には表情の変化すらうかがえない。が、あっさりと言い切った。
「あなたは、そのような手段を用いること、お嫌いでしょう」
嘲笑されたような不快な気分で、曹植は目を背けた。
だが、ここに呼び出したのは、こんな子どもじみたあてつけをするためではない。
もっと、何よりも、大切なこと。
「仲達殿、これだけは頼む」
姿を改めた曹植に、司馬懿もつられて向き直る。
「兄上を大切にして差し上げて」
「言われずとも」
「あの人は、不器用だから」

愛され慣れていない。その立場が原因だった。
権門の嫡子。純粋な愛情で彼に接した人が、何人いるだろう。

――兄上も子建も、どっちかに偏って生まれちまえばよかったのにな。

曹彰が、そう、苦笑したことがある。
武なら武だけ、文なら文だけ。どちらかだけに長じていれば、こんな諍いにはならないのに。

「あの人は頑固だけど、伝わると思うから」
だから、と曹植はくどいほどに繰り返す。
「兄上を愛してあげて」
無論です、と、司馬懿は相変わらずの無表情で応えた。
「これでも私は、あの方を大切に思っておりますよ」
言われて、この男が元は曹丕の傅であったことを思い出す。
なるほど、曹丕への好感情はあるに違いない。


「私は」
無表情なまま、司馬懿から口を開く。
「陛下が――子桓殿が、仕えるに値する主だと思っている。あの方が愛情に関して器用でないことも、先刻、承知の上。私は私なりに、あの方を愛しているつもりだ」
だから、と、彼は言葉を締めくくる。
「行かれよ。あの人へ愛情を向けるのは――」
曹植は、目を見開いた。
自分でも口が滑ったと察したか、司馬懿は気まずそうに口をつぐむ。
意外なところで、彼の無表情が崩れた。
まさか、この冷徹にして傲岸不遜な智将が、嫉妬などを覚えるとは。

羞恥と紙一重の怒りで頬を赤くする司馬懿に、曹植はにやりと笑いかけてやった。
「いいよ。このことは墓場まで持っていってあげる」
だが、こう付け加えるのも忘れない。
「でも、兄上のことだから、とっくに気付いてそうだけど、ね?」
「なっ…!」
ささやかな一矢をけらけらと笑い飛ばして、曹植はくるりと背を向けた。

「じゃあね」

これから先、自分の人生で笑えるようなことは何もない。
何もなさ過ぎて嗤えてくるが。



だから、せいぜい笑わせてあげるんだね、野望の狼。
あの人は笑うことを知らないんだよ。
悔しいな…





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