写本・第二

□翠柳
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柳川へ移封だと伝えたとき、案の定、妻は眦を吊り上げて一言、
「断る」
言い捨て、後は口もきかなかった。
「父上を苦しめた仇の地へ、なぜ移らねばならぬ。この立花を捨てて」
聞き分けのない、とは思わないが、この頑なさには手を焼かされる。
「移らねばならぬのだ」
「なぜだ」
「太閤のご命令だ」
噛んで含めるような口調にならざるを得ない。
「移るというなら、貴様ひとりで行けばよい」
「だが、お前だけ残るわけにはいかんぞ」
「羽柴ずれの命令などに従えるか」
「口が過ぎる」
ひとつ間違えれば討伐の口実に十分な発言だ。
無分別な物言いに苦笑した。
「下手をすれば攻められる」
「降るくらいならば抗うがよい」
「立花の家はどうなる」
「城を枕に戦い抜き、果てるがもののふの道であろう」
「後世に家名を保ち、家臣や民を守ることも、もののふの道だ」
ァ千代は、よほど夫の父の名を出そうとしたが、ぐっと堪えた。それだけはしてはならぬと、己を戒めるだけの分別はある。

「ならば、別れる」

これだけは譲らぬ、と背筋を伸ばして告げる妻を、統虎はまじまじと見つめていたが、やがて深く頷いた。

「わかった」

きゅっと朱唇を噛んで、ァ千代は顔を背けた。
まさか、引き止めてほしいなどと思うとは。

新館へ退去する日、最後まで夫の見送りに応えることができなかった。





それから、ァ千代は二度と、武具を取らなかった。
夫が関ヶ原から撤退してきたとき、家中を率いて鎮西の港へ迎えに出た彼女は、敢えてあでやかな打掛をまとった。
「派手にやられたな」
「ああ」
思うところはあろうが、屈託なく笑う表情はいつまでも変わらなかった。
もう刀は持たぬのか、とは、夫は聞かなかった。
自分の意地ぐらい、簡単に見抜くだろうとわかっていたからだ。





それから長いようで短い歳月。
水豊かな柳川からはるか離れた江戸の町で、妻の逝去を聞かされた。
そうか、とは言えなかった。
「ァ千代が、死んだか」
事実をすべて言わなければ、いけない気がした。
言ってから、ァ千代の寂寥を悟った。

この十数年、彼女はきっと、引き止めてほしかったのだろうかと、いまさらながらに思った。
ともに暮らせと、夫の立場から強引にでも、引き寄せればよかったのかもしれない。
ずっと、女ではないと気を張り続ける彼女を、「女」ではなく「立花ァ千代」として遇し続けた。
等しい立場として、等しい存在として、可能な限りは彼女の意を通した。
それが、本当に「ァ千代」を満たしていたのだろうか。
「妻」は、自分を求めていたのではないだろうか。
不器用で、感情の表現が難しかった彼女は、決して素直に甘えたりしなかったのに。


「すまんな、ァ千代」


ァ千代、という名前が、苦しかった。






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