写本・大戦

□望郷
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 天幕の中は書簡の海だった。その中心に漆塗りの大きな安楽椅子が置かれ、痩躯を安座させている男がいた。余程背が高いらしく、長い脚を組み、そこへ書簡を引っ掛けて目を落としている。
 常に掃き清められた書斎で、端座して書物に当たる父親の姿しか知らぬ蔡琰には、書籍をこうもぞんざいに無作法な姿勢で扱う男の姿は信じがたいものだった。
 彼女が絶句していると、男は目もくれずに言った。
「そんなに珍しいですか。戎狄が文字を読むというのは」
 声の若さ、言葉の流暢さに、蔡琰は驚いてふたたび声をなくした。柔らかな発音に中原の懐かしささえ感じてしまう。
 だが視線を転じると、椅子の右傍に長槍が立て掛けられている。鞘もなく、鋭い鋒が剥き出しのままだ。やはりここは戦地だと思った。
 ふと、彼の唇が微笑んだ。
「何と、愚かな」
 蔡琰は自分に言われたのだと思ったが、違った。彼女が身構えるひまもなく、男の手が書簡を放り投げる。地に落ちるより早く、彼の刀が簡牘を木っ端のように地へ叩きつけた。
 蔡琰は悲鳴を上げた。数十日の間さらされ続けた刃の閃きや大きな音は、彼女にとって無条件の恐怖だった。
 だが、この男には漢女の恐慌など意味のないものだった。彼は初めて、戸口に立つ可憐な虜へ意識を向けた。
「待たせてしまいましたね」
 正面からまみえると、やはり若い。少壮というより青年のようだ。言葉は柔らかく、顔は変わらず微笑をたたえているが、たった今この男の獰猛な行動を目の当たりにした蔡琰には、ただただ恐ろしかった。
「私を知っていますか」
 蔡琰は慎重に言葉を選んだ。とはいえ、知っているのは称号と名前だけだが。
「單于と、伺っています」
「そうですか。私は、あなたの名は知りません。今回連れてきた漢女の中で、あなたが最も教養があると聞いたものですから」
 意味を掴みかねている蔡琰に、匈奴の王は書簡の山を指し示した。
「こちらへ座りなさい」
「ですが…」
「これらはすべて屑です。漢児らのよこした――おや失礼、あなたも漢土の女でしたね――益体もない書簡ですよ」
 それでも蔡琰が書簡を踏むのをためらっていると、單于が深く微笑んだ。
「刖るべきでしょうか?座れ、と言ったのです」
 蔡琰は内心、愕然とした。そして、はっきりと判った。
 この單于は、非常に賢い。比類ないほど冷酷であるがゆえに。
彼女は覚悟を決めた。いまだ痛む足を引いて、打ち捨てられた書簡の上に座った。
 そうして、すっと背を伸ばした漢土の貴婦人の姿を、優雅な匈奴の王は面白そうに眺めていた。
「あなたには特に重要な役目を与えます」
 身構える蔡琰に、単于は微笑を深めた。
「息子に琴を教えてもらいたいのですよ」
「琴…でございますか」
「あなたの知る曲と弾奏の技を、我が息子――豹へ教えるのです」
 蔡女は単于の言わんとすることが解った。
「ご子息へ中原の文物を教えろ、と?」
「そうです」
 決して笑わぬ目の単于は、唇だけは穏やかに笑みながら首肯する。
「我々も今や長城の外とは習俗ことごとく異なる。では、どちらにより近づくべきか、と按ずれば、それは無論、漢土であるべきです」
 けれども、この剽悍な匈奴の王はけして漢人に寄りたいわけではない、と蔡女は思った。この異才とも呼べる単于の人となりの一端を、彼女は短い間にも掴んでいた。
 そんな蔡琰も、さすがに次の言葉は予想していなかった。
「ですから、あなたには息子へ傅いてもらいます。その夫人として」
 今度こそ、彼女は絶句した。女ばかりを略奪したのはそういう理由だと、解ってはいた。その事実こそが、漢土の女にとっては残酷に過ぎた。
「わたくしを、ご子息に」
「ええ。あなたより七年ほど少いですが、そのほうが都合がいい」
「そんな…私よりお若く、ふさわしい方々は、平陽にいくらでもおいででしょう」
 蔡琰の物言いに(その実、彼女はひどく取り乱していたのだが)、単于は憮然とした。
「添い臥しを知らないのですか」
 ものの例えだが、年上の妻をあてがう目的としては似ているではないか。もっとも、豹は女を知らぬわけではないし、すでに好嬖も何人か抱えているが。
 蔡琰には、それとは別の、身分のある妻としての役割を期待しているというのに、あんなちぐはぐなことを言い出す。
「あなたは未通女ですか?」
 蔡琰の察しの悪さに首をかしげた単于は、その立場らしい即物さでとんでもないことを言った。
 さすがに、おとなしい蔡琰も顔色を変えた。が、悲しいかな、不用意に激昂するほど軽率ではなかった。彼女の理知は、虜囚の彼女を諦めを込めてなだめた。
「そもそも、」
 噛んで含めるような口調で、単于は言う。
「何のために、漢土の身分ある婦人を連れてきたと思うのですか」
 まるで、世間知らずの娘に世の中を教えるような言い方だが、それも蔡琰は、ぐっと堪えた。
「……皇宮にお仕えする女官から、教養の最も優れたものを採り入れようとお考えでしょうか」
「その通り。幽并の豪族の娘程度では、読み書きができるかすら頼りない。そんなものに用はありません」
 冷たい、乱世にのみふさわしい冷たい物言いを聴きながら、蔡琰は、ふと、とある黒々とした疑問に気づかざるを得なかった。
「中原の文物を修めたとして、あなた方はどうなさるおつもりですか」
 おや、というように単于が眉を上げた。この身分ある漢土の女官は、たおやかな諦めの眼差しに時折、逞しい理知を垣間見せる。
「聞いたところで、あなたの行く末に関わりはありません」
「いいえ、ございます」
 間髪入れず答えた蔡女は、この沈毅にして非情な単于の狙いを、そう判断した。
 “あなた様は、中原の礼制を以て内を調え、来る日のために兵を研くおつもりではございませんか ”――蔡琰の声なき批難を見て取った単于は、やはり、冷たく微笑むままだ。
「今度の動乱で確信しました。我ら匈奴――塞外にて漢土より夷狄と蔑まれる我らこそが、戦の成否、政の方向すら握っていたのだと。ゆくゆくは中原において権柄を執ることさえできる、と」
「そのようなこと……恐れ多くも漢室が四百年にわたり統べたもうてきた中原を、あなた方が容易に統治できようなどとは思えません」
「『史記』周本紀、幽王十一年条いわく、「申侯怒り、潤E西夷の犬戎と與に幽王を攻む。遂に幽王を驪山の下に殺し、尽く周の賂を取りて去る。是に於いて諸侯乃ち申侯に即き、而して共に故との幽王の太子宜臼を立つ。是を平王と為し、以て周の祀りを奉ぜしむ。平王立つや、東して雒邑に遷り、戎の冦を辟く。平王の時、周室は衰微し、諸侯の彊きは弱きを并す。斉、楚、秦、晋、始めて大なり。政は方伯に由る」……今の中原と実によく似ていますね」
 微笑を絶やさず故事を引く単于は、蔡琰にとって未知の怪物のように映った。都公子のごとき典雅な物腰と、匈奴の残忍さを併せ持つ、恐るべき王。
「我らが犬戎と違うのは、我らは長年にわたり漢と交わってきた匈奴であるということです。あなたたち漢人の文物を知り、その仕組みを取り入れ、学んできた。あなたたちは感化と呼ぶでしょうが、あいにく、それは違います。我らは中原に鹿を逐う匈奴なのです」
 蔡琰は戦慄した。この残忍な匈奴の王は、その明敏な頭脳と涵かな教養によって、将来の版図を塞外の北辺ではなく中原に描こうとしている。
 その一助を、今、漢人の婦人である自分が命じられているのだと。
「さて、豹はどこまで上達するでしょうか」
 ふふ、と咲う単于の声は実に楽しそうだ。彼には見えているのだ。中原に覇を競う己が息子や、孫の姿が。
 彼は立ち上がり、椅子の向こうへ山と積まれた貢物の中から、無造作に何かを掴み上げた。
 それは一面の琴であった。象牙に飾られたそれを、単于は笑って蔡女へ突きつけた。
「弾いてください」
 震える手で、蔡琰は承けた。胴を手にした時、これが逃れられぬ契約であると、彼女は感じ取った。
 打ち捨てられた無数の書簡の上に座り、漢土の女は琴を弾く。愛槍を撫でて中原の音に聞き入る、匈奴の王に見下ろされながら。


 その夜、蔡琰は劉豹の夫人に納められた。






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