「わかった」 何となく、陳琳も察した。隣室に公孫瓚を導いて、申し訳程度の小さな鍵を下ろす。そして、特に意味もなく書簡を広げたり、文房具を出して墨を磨ってみたりと、いかにも何かの用意をしているような音を出してみた。ちらと公孫瓚を見ると、真紅の目をいたずらっぽく輝かせて、うなずき返す。 それで陳琳は、広げた真新しい簡へ、先ほど思い浮かんだ句を書き付けた。真紅の目が物問いたげにまたたくのを、目で制して書き連ねる。不思議なもので――というより、陳琳には自明の理だが、思うままに筆を動かしていると、本気で文の世界にこの身が飛び込んでいく。文字が目の前に情景を作り、情景は心のまま刻一刻と変化する。 あっという間に、陳琳が(それも自分のことを詠ってくれているらしい)詩の世界へ没入していくのを、公孫瓚は面白く眺めていた。もちろん、神経をいくらかは扉の外へ向けていたが。 ややあって、のろのろと気配が部屋を出ていき、扉の閉まる音がした。それと同時に、陳琳の筆もぴったりと止まった。 「行ったか?」 「そのようじゃ」 「やれやれ、…こうでもしなけりゃ、あの坊ちゃん、背を見せて出て行けないだろうからな」 「は、そのくらいは性根がなければ、わざわざここまで来ぬであろうよ」 腕組みして言い放つ、驕慢な口調が実に様になる。そして美しい。これだから、自分は公孫伯珪という人のもとをおとなわずにいられないのだ、と陳琳は思う。 「それにしても、だ」 陳琳が鼻面にしわを寄せた。端整な顔立ちだが、本人は頓着がないらしい。 「一体、どこでかぎつけた?」 公孫瓚の生存を知る者は、大幹部か側近のみ、しかも袁家の奥向きに囲われていると知る者となると、片手ほどしかいない。何となれば、この美しき白馬長史が君主の好嬖などとは、決して漏れてはならない丑聞なのだから。 だが、当の本人である公孫瓚は、相変わらず平然としている。 「どんな秘密も、完く秘密にはできぬということよ。噂程度にはあったのだろう?」 籠の中にいながら、公孫瓚の指摘は常に鋭い。ひそかに密偵でも飼っているのではなかろうかと思うほどだ。 「…まあ、な。特に、殿の寵愛を独占する者に心穏やかでないお歴々がいる」 「なら、本初が不用心だったということじゃ。あいつが来た時にでも、釘を刺しておこうよ」 小さく鼻を鳴らして、公孫瓚はこの件の会話を打ち切った。もとはと言えば、奥向きへの根回しも何もなく“寵姫”を囲い、足しげく通ってくる袁紹のせいなのだから、これはあいつが解決するべきなのだ、と。 それよりもずっと、心を惹きつけるものが目の前にあった。 まことに陳琳らしい、筆が右に跳ね上がる癖字が勇躍する簡は、詩でもなく歌でもなく、騒体の自由遠大な風がある。それでいながら、詠い上げるのは白馬に乗った北方の絶美なる人の物語なのだった。 「美人、佳人とな。そなたにかかれば、俺も巫山の女神か李夫人かといった体じゃな」 くつくつと笑う声は、低く心地よい。陳琳はむきになった。 「賢人、良き友にも用いるじゃないか。何といっても、あんたが気高く美しいのは本当のことなんだから仕方がない。あんたが、さっき劉平伯を叱り飛ばした声、あれはいい、月に冷やされた霜の鞭で打ち据えるような響きがある。そんな声を発する人を美人佳人と呼んで、いけないことなんてあるもんか」 唇に笑みを含んだまま、公孫瓚は陳琳の披歴する言葉を聞いていた。なるほど、彼の目に自分はそう映るのか、と。あるいは、彼が見ている世界はそのように文字に映されるのか、と。 うれしげな笑みをたたえて見やる佳人に、陳琳はちょっとばつの悪い顔をした。 「とにかく、俺はあんたを貶めるために“美しい”と言うんじゃないんだ。あんたは本当に佳き美しき人だ、その美しさは日によって時によって違う、その時々の美しさを俺は文字にとどめたい、その都度に現れる美しさを残しておきたいんだ」 「ああ、わかっておるよ」 公孫瓚も、小さくうなづいた。陳琳の言葉、その心が、燠火のように柔らかく胸の内を温める。彼の言辞は、華やかにして烈しいこと、まるで人となりのごときものがあるが、ただ公孫瓚に対しては和らぎ、時として朴訥ですらある。 「だが、不思議じゃ。そなたとは、ほんの片手ほどにしか会ったことはないというのに、まるで故旧のように相親しむ」 ぽつりと落とされた言葉は、陳琳の胸に深い波紋を描き、蒼海のように波立たせる。どうして、この北方の佳人は、こうも自分の文なる魂を揺さぶってくれるのだろう。 「奇縁に、理由なんて付けられないだろう。ただ一度まみえた敵すら惚れさせてくれる“美人”に出会ったのは、天運でなくて何だっていうんだ」 陳琳が言うと、公孫瓚はまた黙って、美しい唇をほころばせた。 結局、その夜、陳琳は泊まることができなかった。袁家の思わぬ“裏切り”に怒れる漢室の遺児が暴走せぬよう、根回しに動かねばならない。そうと気付いて慌ただしく室を出ようとする陳琳に、素晴らしい贈り物があった。 「孔璋、しばし」 振り向いた陳琳の赤い瞳に、白い光が翻った。温かく触れる唇、遅れて襟足から控えめに薫香が立ち上る。口づけというより、唇でぬくもりを確かめるような行為を、公孫瓚は好む。唇が離れるのを、陳琳はとても名残惜しく思った。 「世話をかける」 真紅の瞳をまっすぐに向けて、佳人は言う。彼が最も真摯に言葉を伝える時、彼はその目を型式の礼に伏せたりはしない。それだけ知っていれば、陳琳には充分だった。 「言ったろう、俺はあんたに惚れたんだ」 不敵な笑みに、公孫瓚もまた笑った。夜に花が風にさざめくような、低くあでやかな笑い声。それも美しいが、いつか、あの鋭く鞭打つような声で戦場を指揮する彼を見てみたいと、そう、かなわぬだろう夢想を陳琳は胸にしまった。 了 |