はっと足を止めた。 人の声だ。 銀の腕を寄せておくれ せめてよい夢、見たいがために 篭の鳥の悲しさを詠っているのか。 耳を澄ますと、合間にぽつりぽつり、琴の音が混じっている。 眠れよい子よ、もう夜が更ける 朝な起きれば涙も枯れる 旋律が歌を追っていくだけの伴奏だが、声は確かによく通っていた。 貴人の慰みものに成り果てた今でも、これだけの声が出るのだ。昔日、戦に臨んでは実に朗々と兵を叱咤し、将を鼓舞したのであろう。 そう、胸中で皮肉げに吐き捨てた。 花も枯れよう涙も露と 朝な夕なにこぼれては ぽつり、ぽつりと琴が節を終えると、それきり、歌も楽も止んだ。 琴をしまう物音に混じって、錚鏘と何かが響いた。歩揺か耳墜か、あるいは佩玉か。いやでも麗々しく着飾った様が目に浮かぶ。 (おのれ、のうのうと生き長らえて贅を尽くすとは!) かっと頭に血が上った。 その気配が、室内に伝わったか―― 「……本初?」 思わず剣の束を握りしめた。扉までは離れているのに、中にいる者は確実に室外の気配を感じ取っている。 (どうする……) 応えるか、それとも、押し入るか。逡巡している間にも、籠の鳥は鋭く外の様子を察知したらしい。 「誰じゃ」 鋼の笞を打つような声が飛んできた。明らかに、扉の外にいる者を敵だと認識している。 これと同じ声を、その昔、易京で聞いた。 あの時、楼上から降り注ぐ矢の雨をかわしながら必死に馬を駆った。馬蹄の音と悲鳴に囲まれながら退却する中に、鎖のきしむ音が交じり、そして、鋭い声が遠弓のように耳を打った。 “放て!” 劉和が駆けるすぐ右に、攻城用の大弩が射込まれた。隣を駆けていたのは、彼と同い年くらいの若い士官だったが、馬もろとも血煙を上げて消え失せた。 後のことは覚えていない。ただ、いつの間にか帰陣していた。血肉を浴びた戎衣がなめし皮のようになって、再びは着られなくなったことだけ、妙に記憶に焼き付いている。 劉和は扉を蹴破った。 月明りだけの夜目にもわかる美しく調えられた室内には、玉器や錦繍、高価な調度があふれていた。その中央、鮮やかな絨毯の上に、背の高い人影。夜風に銀の髪が翻る。差し込む月影に、真紅の目が燃えるように輝いた。 「公孫瓚!」 突きかかる腕は空を切り、それに白い手が触れたかと思うと、いきなり視界が回転した。 声を上げる間もなく全身に衝撃が走り、目から火花が散った。遅れて右腕がねじ切れるように痛んだ。もがこうにも背や胸が疼き、息が吸えない。 「劉虞の小倅め、口ほどにもない」 頭の上から冷笑が浴びせられて、劉和は己が背中から押さえつけられていることに気がついた。右腕を捻り上げられ、背を膝で強く押さえつけられて、身動きすらできない。 「貴様の独断か、それとも誰ぞにそそのかされたか?」 右腕に激痛が走り、劉和はたまらず声を出した。 「言わねば、このまま肩を外す。筋までねじ切ってやる。その後は肋ごと肺臓をゆっくり押し潰す。吐くならば今じゃ」 脅しではなかった。軟禁されていたとは思えぬ力で、少壮の青年の肩がじりじりときしみ、悲鳴を上げていく。劉和のこめかみを脂汗が淋漓とつたい、食い縛った歯の間から悲愴な苦鳴が洩れる。が、なかなか口を割らない。 いい加減、手が疲れてきた。元より、自分は気短だとわかっている。 「面倒じゃ」 残忍な声だけは、劉和の耳にはっきり届いた。 そのまま膝に力を込めようとしたとき、 「伯珪」 名を呼ばれて、公孫瓚の動きが止まった。 話には聞いていたが、今でもこれだけ腕が立つとは。陳琳は素直に賛嘆の目を向けた。 「孔璋」 「一応、その人は殿の客人でね。死なない程度にしてくれないか」 猛禽が獲物を投げ落とすように公孫瓚が手を離すと、劉和の激しい喘鳴が上がった。 「本初に言うておけ、ネズミの穴が空いていると」 床で身もだえる青年へ冷たい一瞥をくれると、公孫瓚は剣を拾い上げた。象嵌の美しい剣は、手入れがいい。が、扱う者が青二才だと惜しむ。 「孔璋、そなた使ってみるか?」 「俺は文官だぞ。まだ槍のほうがいい」 「惜しいわ、そなたのほうが似つかわしいのに」 そんな会話をしていると、ようやく劉和が咳き込みながら体を起こした。陳琳は、そんな若い賓客の顔を覗き込むと、冷ややかに言い放った。 「公子、困りますね。あんたがこの秘密を知ったとなれば、殿はあんたを許さない」 「な…に…?」 涙でかすむ視界の向こうに、悠々と妝榻に腰かける公孫瓚が映る。視線を映せば、陳琳の冷淡な目が見下ろしている。 「孔璋」 退屈そうに公孫瓚が呼びかける。今しがた命を狙われていたとは思えない。 「今回だけ見逃してやれ」 「いいのか」 「構わん」 唖然とする劉和を、再び陳琳の刺すような目が見下ろした。 「あんた、もうお帰んなさい。身を慎んで、二度とばかな真似をしないことだ」 「主簿…!」 痛む肺腑の隙間から血を絞り出すように、劉和が呻く。陳琳は不快そうに眉を寄せた。彼にしてみれば、裏切り者のように呼ばれるのは不本意だ。 「口を慎め、劉虞の小倅」 放たれた語気の鋭さに、思わず陳琳も振り返った。 「貴様、今夜ここにおったのが孔璋で命拾いしたのじゃ、身の程を知らぬ口を叩くでない」 鋼の笞が打ち据えるような美しい声。こんな緊迫した場でも、陳琳は脳裏にいくつか賦を思い描いた。その声が、目の前で瞋恚の心を燃やす若者にとって、憎むべき、忘れがたきものであっても。 自分が殺した男の息子を冷たく見下ろしていた公孫瓚だったが、やがて傲然と立ち上がると、陳琳を見返った。 「孔璋、話がある」 |