写本・大戦

□琴窓
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 はっと足を止めた。
 人の声だ。

   銀の腕を寄せておくれ
   せめてよい夢、見たいがために

 篭の鳥の悲しさを詠っているのか。
 耳を澄ますと、合間にぽつりぽつり、琴の音が混じっている。

   眠れよい子よ、もう夜が更ける
   朝な起きれば涙も枯れる

 旋律が歌を追っていくだけの伴奏だが、声は確かによく通っていた。
 貴人の慰みものに成り果てた今でも、これだけの声が出るのだ。昔日、戦に臨んでは実に朗々と兵を叱咤し、将を鼓舞したのであろう。
 そう、胸中で皮肉げに吐き捨てた。

   花も枯れよう涙も露と 
   朝な夕なにこぼれては

 ぽつり、ぽつりと琴が節を終えると、それきり、歌も楽も止んだ。
 琴をしまう物音に混じって、錚鏘と何かが響いた。歩揺か耳墜か、あるいは佩玉か。いやでも麗々しく着飾った様が目に浮かぶ。
(おのれ、のうのうと生き長らえて贅を尽くすとは!)
 かっと頭に血が上った。
 その気配が、室内に伝わったか――
「……本初?」
 思わず剣の束を握りしめた。扉までは離れているのに、中にいる者は確実に室外の気配を感じ取っている。
(どうする……)
 応えるか、それとも、押し入るか。逡巡している間にも、籠の鳥は鋭く外の様子を察知したらしい。
「誰じゃ」
 鋼の笞を打つような声が飛んできた。明らかに、扉の外にいる者を敵だと認識している。

 これと同じ声を、その昔、易京で聞いた。
 あの時、楼上から降り注ぐ矢の雨をかわしながら必死に馬を駆った。馬蹄の音と悲鳴に囲まれながら退却する中に、鎖のきしむ音が交じり、そして、鋭い声が遠弓のように耳を打った。
“放て!”
 劉和が駆けるすぐ右に、攻城用の大弩が射込まれた。隣を駆けていたのは、彼と同い年くらいの若い士官だったが、馬もろとも血煙を上げて消え失せた。
 後のことは覚えていない。ただ、いつの間にか帰陣していた。血肉を浴びた戎衣がなめし皮のようになって、再びは着られなくなったことだけ、妙に記憶に焼き付いている。

 劉和は扉を蹴破った。
 月明りだけの夜目にもわかる美しく調えられた室内には、玉器や錦繍、高価な調度があふれていた。その中央、鮮やかな絨毯の上に、背の高い人影。夜風に銀の髪が翻る。差し込む月影に、真紅の目が燃えるように輝いた。
「公孫瓚!」
 突きかかる腕は空を切り、それに白い手が触れたかと思うと、いきなり視界が回転した。
 声を上げる間もなく全身に衝撃が走り、目から火花が散った。遅れて右腕がねじ切れるように痛んだ。もがこうにも背や胸が疼き、息が吸えない。
「劉虞の小倅め、口ほどにもない」
 頭の上から冷笑が浴びせられて、劉和は己が背中から押さえつけられていることに気がついた。右腕を捻り上げられ、背を膝で強く押さえつけられて、身動きすらできない。
「貴様の独断か、それとも誰ぞにそそのかされたか?」
 右腕に激痛が走り、劉和はたまらず声を出した。
「言わねば、このまま肩を外す。筋までねじ切ってやる。その後は肋ごと肺臓をゆっくり押し潰す。吐くならば今じゃ」
 脅しではなかった。軟禁されていたとは思えぬ力で、少壮の青年の肩がじりじりときしみ、悲鳴を上げていく。劉和のこめかみを脂汗が淋漓とつたい、食い縛った歯の間から悲愴な苦鳴が洩れる。が、なかなか口を割らない。
 いい加減、手が疲れてきた。元より、自分は気短だとわかっている。
「面倒じゃ」
 残忍な声だけは、劉和の耳にはっきり届いた。
 そのまま膝に力を込めようとしたとき、
「伯珪」
 名を呼ばれて、公孫瓚の動きが止まった。
 話には聞いていたが、今でもこれだけ腕が立つとは。陳琳は素直に賛嘆の目を向けた。
「孔璋」
「一応、その人は殿の客人でね。死なない程度にしてくれないか」
 猛禽が獲物を投げ落とすように公孫瓚が手を離すと、劉和の激しい喘鳴が上がった。
「本初に言うておけ、ネズミの穴が空いていると」
 床で身もだえる青年へ冷たい一瞥をくれると、公孫瓚は剣を拾い上げた。象嵌の美しい剣は、手入れがいい。が、扱う者が青二才だと惜しむ。
「孔璋、そなた使ってみるか?」
「俺は文官だぞ。まだ槍のほうがいい」
「惜しいわ、そなたのほうが似つかわしいのに」
 そんな会話をしていると、ようやく劉和が咳き込みながら体を起こした。陳琳は、そんな若い賓客の顔を覗き込むと、冷ややかに言い放った。
「公子、困りますね。あんたがこの秘密を知ったとなれば、殿はあんたを許さない」
「な…に…?」
 涙でかすむ視界の向こうに、悠々と妝榻に腰かける公孫瓚が映る。視線を映せば、陳琳の冷淡な目が見下ろしている。
「孔璋」
 退屈そうに公孫瓚が呼びかける。今しがた命を狙われていたとは思えない。
「今回だけ見逃してやれ」
「いいのか」
「構わん」
 唖然とする劉和を、再び陳琳の刺すような目が見下ろした。
「あんた、もうお帰んなさい。身を慎んで、二度とばかな真似をしないことだ」
「主簿…!」
 痛む肺腑の隙間から血を絞り出すように、劉和が呻く。陳琳は不快そうに眉を寄せた。彼にしてみれば、裏切り者のように呼ばれるのは不本意だ。
「口を慎め、劉虞の小倅」
 放たれた語気の鋭さに、思わず陳琳も振り返った。
「貴様、今夜ここにおったのが孔璋で命拾いしたのじゃ、身の程を知らぬ口を叩くでない」
 鋼の笞が打ち据えるような美しい声。こんな緊迫した場でも、陳琳は脳裏にいくつか賦を思い描いた。その声が、目の前で瞋恚の心を燃やす若者にとって、憎むべき、忘れがたきものであっても。
 自分が殺した男の息子を冷たく見下ろしていた公孫瓚だったが、やがて傲然と立ち上がると、陳琳を見返った。
「孔璋、話がある」




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