写本・大戦

□寝子
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 小柄で品の良い老人だった。眉も頭髪もすっかり皓いが、足腰はしゃんと伸びている。
 見事に生い茂った眉の下から、意外なほど毅い眼光が見えた。
「どうぞ、召し上がって下され」
 真新しい食膳の並ぶ席を示す。
 当然、公孫瓚のために用意したものだろう。湯気の上がる食器が心憎い。
「…では、有り難く」
 箸を取った公孫瓚に、田豊はひょいと一礼して席を立った。
「失礼じゃが、中座いたしまする」
「どこへ行かれるのじゃ」
「少々、用を済ませて来ますのでな」
 もう一度、一礼すると小さな土器の皿を抱え、すたすたと外へ出て行く。
 何とはなし、この油断ならぬ老軍師に興味を覚えた。

 しばらく食事を味わっていたが、やはり、気になる。
 そっと物陰から伺うと、老翁は皿を地面に置き、何やら辺りを見回している。
 探し物か、しばらく庭を歩き回っていたが、立ち止まって首をかしげた様子では、見つからないようだ。
(…何をしておるのじゃ?)
 公孫瓚まで首をかしげた、その時。
 足に柔らかなものがぞわぞわと触れた。
「う、わ…っ!?」
 思わず変な声が出る。
 慌てて見た足下に、白いもこ毛がすり寄り、
 「なー」
のん気に鳴き声を上げた。
「ね、猫……」
 驚かせおって、と睨みつけるが、猫は灰色の丸い目をくりくりさせるだけだ。
「おお、そこにいましたかの」
 目を細めながら歩み寄ってきた田豊と、なうなう甘えてくる猫を見比べて、公孫瓚はやっと合点がいった。
「…用事とは、こやつのことか?」
 いいかげん、すり寄るもこ毛がくすぐったくて、抱き上げる。
 見た目に比べて、みっしり重い。
「貴君にそのような趣味があったとはな」
「いや、これはこれは…」
 謹厳そのものの外見が、笑うと意外に好々爺然として、何とも不思議な気持ちになった。
「な〜」
 抱いているもこ毛から、じんわり温かさが伝わってきた。
「どうやら、伯珪殿が気に入ったようですのう」
「は?!」
 さらさらとした銀髪にすり寄って、猫がのんきにあくびをしている。
「…俺に猫を飼う趣味はないし、懐かれても知らん!」
「見込みはありますぞ」
「いらんったらいらん」
 それは残念、と呟く田豊の口振りからすると、あながち戯れではなかったらしい。
「少嬬、餌じゃ、餌じゃ」
 田豊が呼ばるが、少嬬――どうやら雌らしい――は、しばらく公孫瓚の胸元でまごついていた。
「仕方ないの…」
 ほれ、と柔らかい首根っこをつかんで地面に下ろすと、ようやく「みゃー」と鳴いて食べ始める。
「まったく、手間のかかる…」
 公孫瓚が言えば、田豊は白い眉を下げて笑う。
「なかなか扱いがお上手じゃ」
「…猫の扱いを褒められてもな」
「いやいや、猫はまこと勝手気ままなものでしてな」
 気に入らぬ相手ならさっさと逃げる。
 餌をやっても、食べ終わればひょいといなくなる。
「で、気分のいいときだけ、気まぐれに人間の好きにさせるわけか」
「ほっほ、左様じゃ」
「ますます解らん、何でそんなのが可愛らしいんだかのう…」
「それが何とも不思議に、愛らしく思えてくるのです」
「ふうん……」
 首を傾げる艶やかな様子を見たとき、老臣ははたと悟った。
 袁紹がこの貴人を欲しがるのも、そんな理由なのかもしれない。
「おい、少嬬とやら、そんなに食って、鼠も捕れぬデブ猫になったらどうするのじゃ」
「な〜?」
 日だまりに座る公孫瓚の胸元で、華麗な首枷が錚鏘と響いていた。





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