ずっと、声もなく、棺に添っていた気がする。 殯宮は死の宮、そこだけが彼の安らぐ場所なのだろうか。 きっとそうではなかった。だが、そうなってしまった。 扉の開く音がした。 棺へ添わせた指に、嫌な力が入る。 それは音もなく近寄り、数歩の距離まで奪い、そして満足そうに囁く。 「こちらにいらしたのですか、我が君」 背中を覆うような優しい囁きに、心から嫌悪が奔った。 「よくも…ここへ来られたな…」 怒りと嫌悪がない交ぜになった呻き声にも、賈充はほとんど心を動かされなかった。というより、理解できないのだ。最も懸念すべき障害が除かれたというのに、主はなぜ喜ばないのだろうか。 「なぜ、そのようにお嘆きなのですか?私が、子上様の障害となる者を取り除いて差し上げましたのに…」 肩に掛かる手の感触に、司馬昭は思わず笑いがこみ上げてきた。 「“私のため”…?」 引きつった笑い声がすすり泣くように消えていく。 「笑わせるな、自分のためだろう…!」 「我が君…?」 「私の心を知っていたなら、何故こんなことをした!私は――」 「私の心を知っておられたなら、何故お任せになったのです?私は子上様のお望みどおり、事を運んだだけ」 「貴様……!」 「私をお選びになったということは、それがあなたの御心に敵っていたからでしょう?ねえ、そうですよね?」 肩を這い、背へ絡みつく生温かい感触の中で、司馬昭は怒りを通り越して、もはや絶望していた。 なぜ、こうまで主君の意思を歪めながら、最高の理解者のように振舞えるのだろう。 そして、自分が残酷な裏切りを突きつけた相手に、どこまでも優しく、病的なほど優しく、すっかりと抱きしめて、 「私は、こんなにもあなた様を愛しておりますのに――」 ぬけぬけと、そう囁けるのだ。 ――生かしておけない はっきりと、そう思った。 彼ほど忠実な謀臣がいないどころか、裏の汚れ仕事も表の粛清も完全に、それも司馬昭への忠誠だけで平然とやってのける者がこの世にいるとは思えない――そういう冷徹な事実も、全て黙殺した。というより、今の司馬昭の思考の中で浮かびもしなかった。 ただ、曹髦を殺した、この男を生かしておけない。 その時、耳元で低く笑い声が聞こえた。 「血の匂いがいたしますよ、子上様」 息が止まるかと思った。 頭上で澄んだ金属音が聞こえる。簪――護身用に鋭く研がれた身と、その鞘――を引き抜いた音だ。 「よせ!」 手を伸ばしたが、遅かった。 「きちんと拭われなければ…お召し物が汚れますよ」 赤黒い汚れの滲む簪の後ろに、毒々しい微笑があった。 支えを無くした髪が力なく緩んでいく。覆われていく視界を、青白い手が優しくかき分けた。 「僕射の血ですか。……あなたが拭われない理由も、そのようですね」 「違う、私は、ただ話を…」 「穏やかな顔をしておりましたよ、それほど苦しまなかったでしょう」 そう言うと、鞘ごと簪を投げ捨てた。司馬昭が惜しむ者の血など、見るも忌々しい。 |