写本

□青衛霖北
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 唇が自由になっても、公孫瓚はじっと唇を噤んでいた。
 ただ、露わになった肌を愛でる手を見つめて、
「狂っている」
 と、吐き捨てた。
 やはりその瞳は赤く、美しかった。
「そうだな…お前に首輪をつけよう。金と宝玉の首輪を嵌めて、犬のようにかしづかせてやる。鎖は銀で作ろう…鎖を引けば這い回るお前の首輪が鳴るよう、瓔珞も下げてな…」
 低い笑い声を漏らしながら荒々しく肌を暴いていく姿は、鬼気迫る狂気が滲んでいた。
「やはり、狂っている…」
 呆然と呟く公孫瓚の弱々しい声が、ぞくぞくとするほど心地いい。
「…狂っておる……貴様は、こんな…」
「こんなことのために、か…?」
「…っ…ぅ!」
 首筋に走る鋭い痛み。それを口づけだと理解する前に、白い腕が反射で首筋を払った。
 弾かれた頬に構わず、袁紹はせせら笑う。
「敵に抱かれるのが怖いか」
「違う…!」
 唇を噛み、悔しげに睨みつける表情が、一段と凄艶で美しい。
「俺の行為を理解しているくせに、随分と疎い、初なものだ」
「黙れ!」
「さて…誰が初めに、お前を抱いた?」
 息を呑む感触が、抱き寄せた肌から伝わる。
「劉玄徳…ああ、それとも…劉伯安か…?」
 思いつく名前を告げてやるが、どうやらいくらかは真実だったようだ。
 噤んだ唇を、更にきつく噛みしめている。
 その表情を見たとき、不意に不愉快な苛立ちを覚えた。
「お前がどれほど男を知っているか――」
「な、にを…っ!」
「その体に訊いてやろう…」
 露骨な残忍さと剥き出しの欲望。それが、彼を支配している全てだった。
「伯珪…」
 一瞬、ただの一瞬、その名に限りない愛を込めて、呼んだ。

「何の――過ちだ――」
 引き倒した両腕を締め上げ、険しい声が糺す。
 広がった銀の髪の中で、憎しみと失望に満ちた目が赤々と映っていた。
 切れた唇の端が、ほの朱い。
「誰が貴様ごときに身を任せるか」
 激しているようで、公孫瓚の口調はどこか冷めている。
 諦めたように装って、その牙は袁紹の首を忘れてはいなかったのだ。
「ならば、なぜ、ためらった?」
 理由は聞かずとも、おおよそ察しはつく。
 公孫瓚らしい、狭量というか幼稚というべきか。
「お前は、優しく呼ばわる者ならば誰でも良いんだな。劉玄徳は、お前をそうして手懐けたか?」
「袁紹、思い上がるな…!」
「自惚れているのはお前だ、公孫讃…」
 見下ろす袁紹の目は、先程と違い険悪だった。

やはり、駻馬には調教が要る――。

 その呟きを聞き取る間もなく、寝室の扉が開いた。
 文官然としているが酷薄な鋭い目つきの逢紀が、陰気な佇まいで控えていた。それに、荒れ馬を禽えるための腕力として、精悍な偉丈夫の顔良と容貌魁偉な文醜が、扉からぬっと姿を現す。
「…この傲り高ぶる白馬を、思うまましつけてやれ…」
 言葉の端々に滲む陰惨な愉悦の響きを、神経の尖りきっている公孫瓚は聞き逃さなかった。
「袁紹…貴様、何を……」
 青ざめる横顔を愛おしげに眺め、 恭しく近寄る巨漢へ投げてよこした。
「あまり傷をつけるな。それ以外ならば、どう扱おうが構わん。最後には俺のものとなる。そう心得ておけ」
 命令を守る気があるのかないのか、逢紀は血の気を失った虜囚の顔を一瞥し、御意、とだけ答えて退出していった。
 思いがけず、公孫瓚は抵抗しなかった。深い絶望で蒼白のまま、袁紹を失望と蔑みの目で睨むだけだった。

 彼らの無関心な表情の下に、どんな陰惨な計画が蟠っているのか、それは袁紹の関知するところではない。
 愕然と言葉もなく、これから先に待ち受けるおぞましき狂宴を思い、諦めに紅き目を閉じる、美しい白馬の命運を考えた。
 その堕落した艶容を思うと、笑わずにいられなくなるのだった。





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