書架

□浸玉
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夜露を含んだ花に白い爪が掛かろうとしたとき。
「お待ちください」
静かに、その手をつかまれた。
その、白く、硬い玉のような、手。
「お前は…」
「司馬、子元と申します」
司馬師は再度、深々と拝礼した。
「夜気はお体に障ります。どうか、中へ」


人気のない寝殿、あらためて牀榻へ身を落ち着けると、司馬師が自らの表着を着せ掛けてくれた。
「申し訳ございません。人を呼んで、お召し物の支度をさせましょう」
そう言って立ち去りかける司馬師の袖を、曹叡は思わずつかんだ。
「陛下…?」
「…いい、今は、誰も呼びたくない…」
ここにいてくれ、と言う。
司馬師はすぐに跪き、優しく手を添えた。
「承知いたしました」
力の込められていた白い手から、ほっと力が抜けた。
長い黒髪がこぼれる横顔は、うつむきがちで表情もよく判らない。先ほどの鬼気迫る凄艶さは消えて、いっそ儚げなほどだ。
「仲達に、命じられたか」
黒目がちの瞳が、じっと、司馬師を見つめている。
ぞくりとした。恐怖ではない。あまりに美しすぎるのだ。
「いかにも…」
「そうか」
それだけ呟き、静かに目を伏せる。
ふと翳った目元に、再び胸がざわめく。
「全て、知っているのか」
何を、とは言わないが、司馬師には解っている。
「全て、存じております」
息を呑む音が聞こえた。
予想はしていたものの、やはり知られたくないという思いがあったのだろう。
自分といくつも違わぬ、この世で最も尊い人は、その身の内にどれほどの感情と激情が鬩ぎ合っているのか。
それを全て受け止めたのが、父であったのか。
あるいは、この美しき君主が自ら、受け止めてほしいと願ったのか。
「陛下」
胸に焼け付くざわめきの名を、司馬師はまだ、知らない。
「わたくしでは、いけませんか」
憑かれたような眼差しに、曹叡は何を感じ取ったものか。
ふと、その唇が婉然と、笑った。



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