孫皓を助命したことを恨む者は多い。 それを承知の上で、政治的な判断として助命した。 それは間違いではないと思っている。 だが、仮にも一王朝の主が、あのように激しく憎まれている。 それを突きつけられたのが、司馬炎に苦い感情を残した。 ――それでも、お前のことが愛しいと言えば、お前は受け容れてくれるか…? 眠る青白い頬へ触れようとした、その時。 鋭い音を立てて羅の帳が引き裂かれた。 灯火の明かりが刃にぎらりと反射する。 「何用だ、痴れ者め」 すると、賊は意外にも、その場へ跪拝した。 宮城の衛兵である。 侵入しても言い訳はついただろう。 「陛下!私は、畏れ多くも玉体を害し奉ろうとするのではございません」 「では、何のつもりだ」 「そこに眠る暴君の首を所望いたしまする」 「呉の者か…」 はっ、と、衛兵が顔を上げた。 「人民を虐げ、なぶり者にした暴君が…!」 何か言いかけようとする司馬炎を、孫皓は制した。 「いい。聞かせてくれ。私も忘れてしまいそうだ…」 「忘れただと!?俺の妹は貴様によって後宮へ没収され、貴様の気まぐれによって殺され、死体は切り刻まれ辱めを受けた挙句、川へ棄てられた!これが罪でなくてなんであろうか!」 場に一瞬の沈黙が落ちた。 だが、孫晧が何か言いかけるより早く、皎い手がその口を覆った。 「答えずともよいぞ、帰命侯!」 耳元で口早に囁かれた声。 目だけを動かせば、玄い髪の翳で朱い唇がにやりと歪められたのが判った。 「ほざけ。帰命侯は朕の物、貴様ごときが口出しする事では無いわ」 落ち着き払った皇帝の様子に、衛士は気を飲まれた。 「し、しかし…!天子とは天下万民の範、故に徳を以て――」 「天子とは天下万民に仁を施し、徳で以て治めよと?片腹痛い、そんな建前など朕は知らん!」 「なんと…!」 「それとも貴様、玉座とはかくも清く、天子とは完き存在と本気で信じているのか?愚か者め、我が王朝を見るがいい」 呆れた孫皓は視線を動かし、自分を抱きしめて離さない“主”を見上げた。 (そこまで言うか…?) 社稷を捨てた彼ですら放言と取った、その不遜な言葉に、一介の衛士は逆に憤ったようだ。 「…おのれ……君を弑した奴腹の末に、正道など望むべくもなかったか…!」 真っ正直な義憤を、しかし、この世で唯一無二の地位にある男は嘲笑する。 「そうとも、この天下百姓は朕の父祖が血を以て獲得し、朕がそれを継いだだけのこと。そこに天意など無い、否、認めもせぬ」 眼下の哀れな男をせせら笑いながら、かつての虐主を抱きしめる腕は優しいほどに力を込める。 「中華の地は朕が享け、その天は朕が戴いたのだ。誰のものでもない、ただ朕のもの。朕の意思だけが天地の意に遵う!」 言うやいなや、司馬炎は枕下の剣を掴み、寝台を蹴って跳躍した。 不意を突かれた衛士の胸に、白い足がめり込む。 蹴倒した身体、素足の下から確かに伝わる、あばら骨の砕ける感触。 衝撃によって剥き出された喉へ、ためらい無く切っ先を振り下ろす。 まっすぐに頚骨を断ち割り、突き通された刃が床を噛む。 がつん、と響く音――その重さ、衝撃。 やや遅れて、微かな血臭も届いてきた。 半年振りに触れた感覚に、孫晧は、ただ呆然としていた。 特に嫌悪感も無かったが、懐かしむ気持ちも無かった。 ただ、ありのまま、「人の命が絶たれる音」であり「血の臭い」であった。 |