Box
□junk box
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【ピンクセラピー 番外編】
「どんどん、どんどん、老いていくのがわかるの」
彼女は神妙な顔つきでそう言った。
「人は誰しも老いていくものよ」
私が軽い調子で答えれば、彼女は違うの、とゆるく首を振った。
見れば、彼女の乾燥した唇が、少しだけ震えている。
私は抱きしめてはやらなかった。否、抱きしめることができなかった。
「最近、色々な事を忘れていく自分がいるの。少しじゃない。たくさんよ。大切な思い出も、書き留めておいたことも、忘れてしまってる」
「思い過ごしじゃない?」
「違うの。そうじゃないの。だって、」
「だって?」
「彼の顔も、声も、思い出せなくなっているの」
私は驚かなかった。そうだろうって知っていた。
じゃなきゃこんな病室に、長い間、閉じ込められているはずがないもの。
「どの辺が思い出せないの?」
私は手に持った果物ナイフで、りんごの皮を剥きながら何気なく問う。
「まずは顔。彼の目はどんな目をしていたかとか、鼻の形、それにどんな髪質だったかも思い出せない」
確かめるように紡ぐ声が震えていて、私は宥めるように大丈夫よ、とやさしく言った。
「彼の目は、右目は奥二重だけど、左目はパッチリした二重だわ」
「鼻は?」
「鼻は、そうね。少し小ぶりなんじゃないかしら」
「じゃあ髪は?」
「これよ」
そう言って、私は自分の髪の毛を一房、彼女に触らせる。
「あぁそうよ、そう。これよ」
彼女は安心したのか、微笑んで、瞳を閉じた。
そして何もない空に両手を浮かせて、そこにはない何かを形どるように手を動かせる。
「そうね…そう、思い出したわ。広い肩幅、褐色に焼けた肌、筋肉の盛り上がった太ももと、筋立つふくらはぎ。大きな手。丸い爪。あぁ、そうよ…首筋にはほくろがあった」
宙を行きかう彼女の手はやせ細り、手首の上には点滴がしてある。
サクサクとりんごの皮を剥く手を休めることなく、私は黙々と果物ナイフを進めていく。
「彼に会いたいわ」
ぽつりと、彼女がそう呟いた。
何度となく聞いたその台詞に、私は今日も首を振る。
「それはできないわ」
すると彼女は懲りることなく、どうして、会わせてくれないの?と今にも泣き出しそうな声で呟くのだ。
りんごの皮を剥き終わった私は、サクリ、サクリ、とそれを切り分けると、皿に持って差し出した。
「会えないの。さぁ、食べて」
念を押すように答えると、彼女はその黒い瞳を私に向けた。今日初めて、目が合った気がする。
「どうして」
呟かれた声はかすれて小さかったけれど、唇の動きで読み取ることができた。
私は首を振る。そして人形のように黒い瞳に、再度語りかけた。
「だって、死んだじゃない」
白く無機質な部屋には、その言葉は吸い込まれてはいかない。跳ね返されてしまうから。
耳鳴りがした。塩水につけなかったからか、早くもりんごの劣化が始まって、茶色くなり始めていた。早い。
そうだ、早いのだ。
何もかも早い。早すぎて、私はいつもどうしていいかわからなくなる
「ふふ、おもしろい嘘をつくのね」
彼女はまるで少女のように笑った。そうして寝転がる。枕元に、彼女の白く長い髪の毛が散ばった。
「嘘じゃないわよ」
「いいのよ。なかなかおもしろい嘘だわ」
「嘘じゃない」
「彼がそう言わせてるんでしょう?」
意地悪なんだから、と歌うように言って、彼女は唇を尖らせた。
すると何分もしない間に、彼女の寝息が聞こえてきて、私は剥いたばかりのりんごを一つかじった。
しゃりしゃりと咀嚼する音が病室に響いて、特有の薬品臭さをひと時忘れることができる。
目の前に横たわる、白く、やせ細った彼女に、布団をかけて、
「もう彼は居ないじゃない」
私はひっそり囁いた。
「ねぇ、母さん」
点滴の流れ落ちる様を見る。
その先に繋がれた人は、紛れもなく血を分けた自分の母親なのだということが未だに信じられなくなる。
「父さんはもう死んでしまったじゃない」
苦笑すると、頬が引きつったような感覚に陥る。
声は震えてはいなかった。存外しっかりしたものだった。
「あなたは父さんよりもっと先に、忘れてしまったことがあるでしょう?」
劣化するりんごを見る。もう止まらないのだと知る。
私はこの憐れなりんごたちを、今さら塩水につけようとは思わなかった。
「ねぇ、母さん」
穏やかな晴れの日だ。白いカーテンが春の陽光に照らされ、風にたなびいている。
「娘の顔、忘れたの?」
声が、震えた。
-END-