「ごめん」
そうしてやっとの思いで呟いた声は、騒がしい店内の騒音に掻き消されてしまうんじゃないかと思える程に、低く掠れて情けなかった。
自分のがさつな声が、三橋を怯えさせるのだと知ったのは、何年前の事だろう。
それから自分は、どれだけの言葉を、彼に優しい声で囁いてやれたのだろう。
二人きりの時ですら、それが、お互い一糸纏わぬ姿でシーツに縺れる時ですら、自分はどこかで三橋を思いやれていなかったような気がする。
答えを聞くまでの数秒間、阿部はそんな今更何の役にも立たない思考を巡らせ気を紛らわせた。
「そう」
たったそれだけ。
気の遠くなるような長い間を空け、三橋は唇を塞いでいたティーカップをゆっくり降ろし、短い溜息のように色の無い声で答えた。
「…ごめん」
だからそれはさっきもう聞いただろ。
虚しいツッコミを自分に入れながら、再度阿部は同じ言葉を繰り返した。
「うん」
カップの淵をなぞりながら、三橋は紅茶に浮かんだ波紋を眺めていた。
「………ッ、」
続きの言葉に詰まってしまい、阿部はそこでようやく気付いた。
三橋は決して自分が怒りや悲しみで言葉を無くしている訳でも、込み上げる涙を必死に噛み殺している訳でも無い。
三橋は、その残酷な言葉の全てを、阿部自信の口から吐かせようとしている。
それもそうだ。
ここにきてどうして三橋が自分の手を汚さなければならないのだろう。
「事情は、さっきも話したけど…俺はもう、三橋とは会えない…いや、三橋とは会わない」
決心を固めたわりには、随分遠回りな台詞だった。
「自分勝手だってのは重々承知した上で頼む」
三橋に見せるつもりで指輪を外してきた左手は、まだ膝の上で固く握り締められている。
「俺と…、別れて欲しい」
全く男らしくない。
情けないやら後ろめたいやらで、阿部の頭は思わず下を向いた。
「……わかった」
三橋の言葉はどこまでも端的で、その一つ一つが小さな棘のように鋭く、阿部の柔らかい部分に突き刺さった、
三橋の声や言葉を、これ程に痛いと感じた事も、恐ろしいと震えた事も、これが初めてだった。
そして最後だった。
「………………。」
それっきり、三橋は口を閉ざしてしまった。
ただ黙々と、ティーカップに残る紅茶を飲み続けていた。
途中、ウエイトが水を注ぎに来た時にも、三橋は「大丈夫です」と、やんわり断っただけだった。そして阿部のグラスにだけ、水が並々注がれた。
どれくらいの時間が経っただろう。
多分、10分も過ぎていない。三橋が紅茶を飲み切るまでの間。
阿部は次に待ち受ける展開が恐ろしくて仕方なかった。
罵倒されるのだろうか。
それとも、ここぞとばかりに泣かれるのだろうか。
もしかすれば、平手打ちの一つくらい食らわされられるかもしれない。
全てを受け入れる準備は、もう何日も掛けてしてきたはずだった。
なのにいざその場面に直面すれば、足は竦み舌はもつれてしまう。
「…じゃあ、俺、帰る ね」
「え、」
うなだれた頭を上げると、三橋は空になったティーカップルをテーブルの通路側へと避けていた。
「いや…あの」
「なに?」
まだ、何か言いたい事があるの?
僅かに阿部を見下ろす三橋の目が、言葉の代わりとなっていた。
「その…いいのか?」
「なに、が?」
「ナニ…て、お前、」
「俺は、わかった、て、ゆった よ」
「それは…そーだけど!」
それだけだった。
三橋から告げられた言葉は、今まで交わしたどの言葉よりも短く、そして物足りなく感じた。
こんな自分だけの都合で別れを切り出されて、それで納得なんて出来るはずが無いのに。
嫌なら縋り付けばいい。
腹が立てば罵ればいい。
憎いのなら殴ればいい。
それで気が済むのなら。
「お前は…三橋は、それでいいのかよ」
だって、余りにも惨めじゃないか。やるせないじゃないか。こんな終り方。
「俺は、泣かないよ」
阿部の頭上に降り注いだのは、罵声でも拳でも無かった。
落ち着いた、と言うには静か過ぎる、三橋の短い言葉。
「泣いてなんか、あげない」
「みは、」
阿部が口を閉ざしてしまったのは、今日初めてまとも見た三橋の目に、一粒の涙も浮かんでいなかったからだった。
「もう、これっきり、だ」
三橋は財布から一枚紙幣を取り出すと、テーブルの上に置いた。
「三橋…、俺は…っ!」
阿部が腕を伸ばした先に三橋はもういなかった。
席を立ち、阿部を見下ろす三橋は、いつもの別れの時よりも、むしろ清々とした涼しい顔をしていた。
「じゃあね、阿部君、バイバイ」
これが最後の別れになるなんて、思ってもみないような顔だった。
また次の休みになれば、また恋人として三橋に会えるような気さえした。
でもこれが本当の本当に最後。
最後に三橋は、茫然と見上げる阿部に微笑みかけ、一度も振り返らずに店を出て行った。
ついに阿部は、別れの言葉を口に出来なかった。
泣いてなんか、あげない。
三橋と交わした最後の言葉。
永遠すら信じた恋の終りを、最初に裏切ったのは阿部の方なのに、その本人はまだ現実を受け止めきれていなかった。
解っていた。
でも信じたくなかった。
自分は三橋の泣き顔が見たかった。
「どこにも行かないで」
「一人にしないで」
「別れないで」
そう言って縋り付く三橋を宥めて慰めて、自分の愚かさを思い知る事で、阿部は罪滅ぼしをするつもりでいた。
でもその思惑は、阿部の期待は、三橋の手によって全て裏切られた。
それが三橋からの、せめてもの復讐。
結局、最後まで縋り付いていたのは阿部だった。
「泣きてーのは、俺の方だろが」
阿部はまだ氷の溶けきらないグラスを掴むと、その中身を全て自らの頭上にぶちまけた。
fin.