★妄想の釜:奈落の碗

□探偵の憂鬱
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 計画に彼の失踪はなかったはず。その彼が姿を消し――しかも発見された時、本物(狂言ではない)の見立てが完成される直前だったと聞いた時、表情を取り繕うのに苦労した。
 そんなはずは、と叫ぶ代わりに言ったのは、医者である自分に相応しい台詞だ。
 全身は薄汚れ、目の下にはクマ、華奢で小柄な和に支えてもらわなければまともに歩けないくせに、それでも尚動こうとする彼――三笠尉之を見て思ったものだ。
 つまり、この男は相当な大物か――馬鹿だ。


 その大物もしくは馬鹿な男は今、目の前で座っている。不本意そうな顔で、唇を尖らせて。
「腹が減った」
「チエコがすぐに持って来るわ。診察するから服脱いで」
「…………」
先刻からある内心の動揺を悟られないよう、敢えて口調をきつくして告げる。尉之は、なんら躊躇いもなしに上着とシャツを脱いだ。

「打ち身はないようね。頭の打撲も……腫れてるだけだわ。内出血の心配はなし」
 尉之が座っているため、珍しく自分が見下ろしている。妙な感慨を覚えながらも、その後頭部に告げた。
「頭を冷やして、寝ておきなさい。しばらくは動かないこと。食事はここで取りなさい」
「『頭』ってのはどっちの事だ?」
「は?」
 本気で意味が解らず、聞き返す。尉之は相変わらず向こうを向いたまま、言う――硬い声で。
「殴られた傷の方か、それとも、……犯人にまんまとしてやられた阿保な脳味噌の方か」
「…………」
 こちらが黙っていると、尉之は無言で服を着込む。探偵としてのプライドが傷ついたのだろうか……?
 にしても、やはり可愛いげのない男だ。何事も皮肉を込めて、遠回しに発言するのだから。
 思わず己の口から嘆息が出かかった所で、ノックの音がした。
「みーさーん、ご飯ですよー!!」
 チエコだ。尉之のために食事を急いで持って来たのだろう。
 動こうとした尉之を手で制して、自分が扉に行った。食事の載ったトレーを受け取り、尉之が腰掛けているベッドに向かう。弱っている尉之に配慮したのだろう、消化の良い粥だ。
 ベッド脇のサイドテーブルに置きながら、言う。
「ゆっくり食べてから、すぐ寝なさい」
「……ああ」
 今度は素直に頷く尉之に安堵して、再び扉に向かった。いつまでも自分にいられても迷惑だろうし、もう用は済んだ。アルと話さなければならない事もある。ドアノブに手をかけた所で――
 金属音。
 反射的に振り向いて、何が起きたのか知った。どうということもない。尉之が粥を食おうとして、スプーンを落としたのだ。運よく、器の中に。
 どうやら、有り得ない事件が起きて、過敏になっているらしい。大仰な反応をしてしまった自分を内心で叱り、またノブに手を伸ばす。視界の隅で、尉之が落としたスプーンを拾うのが見え――
 二度目の金属音。
その音が、自分の中の何かを打った。
 幸運にも。
 振り向くと、先刻の姿から変わりなく、尉之はベッドに腰掛けている。サイドテーブルに置いた食事を食べるため、粥の入った器に手を添えて。
 だが。
 その目だけ、変化があった。滅多に見ない、驚愕に見開かれた瞳。
 視線は、自分が取り落としたスプーンに注がれている。
 失敗した。
 医者のくせに。
 そう自分をけなして、大股で尉之に向う。
 尉之は、その足音で我に返ったらしい。固まったままで、こちらを見つめて来た。
 尉之の脇に立つと、彼は無言で俯き、左手で右手を覆う。こちらが気付いた今となっては、意味を為さない行動だ。それを理解しているのか、心なしか肩が落ちている。
 ――彼の手が震えていた。小刻みに、しかし隠すことが出来ない程。
 スプーンを二度も落としたのはそのせいだ。
 驚愕の表情は、自分でも信じられなかったからだろう。
 恐怖を感じた――いや、未だ感じていることに。
 医者失格だ。
 時に精神の傷は、肉体の傷よりも深く残る。
 長い時間、暗い迷宮の奥、文字通り死と隣り合わせの状況の中――たった一人で取り残されたのだ。助けを呼ぶ事も、動くことも出来ず。
 彼が助かったのは、ほんの偶然――奇跡に近い偶然だったのだ。


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