短編
□水路を見る
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登校してから学校が休みだということに気付いた私は、そのまま芝浜を探索することにした。
酷暑が続いた夏だったが、今日の天気は空高くも爽やかで、微風が心地よく、足を軽くしてくれる。
歩いているうち以前も映像研の皆と来たことがある、水没した道路の水路まで来た。
浅草さんが構想に没頭し、足元を滑らして溺れかけて、金森さんが助けてくれたあの水路。
さらさらと綺麗な水が流れ、魚が泳いでいる。
その気持ちよさそうな光景に自然と笑みが零れ、私はその場に鞄を下し、しゃがみこんだ。
靴と靴下を脱ぎ、足を水に投げ入れる。
冷たいけど柔らかな水に濡れて気持ちがいい。
全身中に入ったらどれだけ気持ちいだろう。
泳いでみようか。
ブレザーを脱いで、シャツとスカートの格好で水路に飛び込み、水飛沫を浴びた。
水の流れは思ったよりも力強く、先刻足で感じたものと別格に思えた。
気を抜くと足が取られそうだ。
捕まっていた壁から手を離し、一瞬潜ってみようかと顔を水面につけた瞬間、目の前に魚が躍り泳いで向かってきた。
「うわっぶっ」
驚いて体勢を崩して水中に倒れ、魚は飛び越えてどこかへ行った。
まずい、と本能のまま身体を捻り、流れに逆らって泳いで進む。
気持ちのいい水の冷たさも、今は肝が冷えて寒く感じる。
泳ぐんじゃ流れには勝てない、足を着いて壁に這って登らなければ。
手すり、手すりを掴めれば。
「死んでたまるかっ…」
腕を伸ばし、錆びた手すりの足を掴む。
濡れた服が想像以上に重く、水流は相変わらずうねるようにして私を後ろへ押し流そうとしてくる。
伸びた腕は疲労して、自分を引き上げる力は残っておらず、力を引き絞るには私はひ弱過ぎた。
手すりから手を滑らせ、再び水流に押される。
死んでしまう。
また、最初からだ。
もう何度目かも分からないけど、今回は私の不注意なのが悔しい。
なんならいろいろ試して失敗してから今回の最期にしたかった。
そしたら次に映像研の皆と会ったとき、きっとまたうまくやれるだろうから。
死を覚悟し、走馬灯を見ていると、私の力尽きた腕を乱暴に誰かが掴んだ。
はっと目を凝らすと、金髪と黄緑の服を見る…この姿は。
混乱する私を無言で引き上げ、彼女、百目鬼さんははぁ〜っと疲れた溜息を吐いた。
「今度は河童の真似っすか?溺れてたっすけど」
「百目鬼さん、ありがと…た、たすかったぁ…」
濡れた手を払いながら、無表情に百目鬼さんは呆れている。
映像研と手を結んだ音響部部員、百目鬼さん。
タイミングよく来てくれたうえ助けてくれて、感謝しかない。
「部活さぼってなにやってるんすか、もー」
「え、部活?」
「会議、すっぽかしたっす」
「ご、ごめん忘れてて」
「議事録後で送るっす」
「あ、ありがとう」
後ろの地面に置いた自分の機材を差しながら、百目鬼さんは抑揚なく言う。
学校はなくても映像研は部活やってたんだ。
白熱したイメージ共有会議を今日もやっていたんだろう、百目鬼さんの音声議事録を聞いておかなければ、今後の部活で良い絵が描けない。
彼女には頭が上がらない。
「じゃ、ウチはこれで」
「うん…」
言って百目鬼さんは機材を背負い会釈する。
今日は収録に来てたんだな…本当にタイミングが良かった。
ぼんやりと去るその後ろ姿を見守っていると、不意に彼女が振り返って首を傾げた。
「…あー、もしかして」
「?」
「いま終わりにしようとしてたっすか?」
「え」
百目鬼さんが眉根を少し寄せながら言う台詞に、私は心臓を掴まれた気持ちになった。
その言葉は私のことを知っていなけば出てこない。
ドッドッと、溺れかけていた時のように心臓が早鐘を打ち直す。
彼女は知っているのか?どうして?
「邪魔したなら悪かったっすね」
「ち、違う違う!死のうとなんかしてない!えっ、ていうか知ってるの?」
「金森氏から聞いたっす。秘密だったすか?」
「いや、誰にも言うなとは言ってないけど…」
「だから教えてくれたんでしょうね」
傾げた首を正し、百目鬼さんは私を見つめている。
彼女から見た私はどんな風に映っているのだろう。
ループ人生を繰り返している不憫な人か、設定を吹聴してる怪しい人か、言い訳にして諦観や希死念慮を吐き出す見下げた奴か。
なんだろう、いずれにしても羞恥を覚えてしまうのは、彼女には格好悪いところを見せたくなかったんだろうか。
俯くと、百目鬼さんはじゃ、と再び声を掛けた。
「また映像研で」
「うん、またね…」
「またやるならウチが完全に消えてから頼むっすよ」
「だからそんな気ないってば!」
「そっすか、なら安心っす」
微笑し向きを変えた百目鬼さんは、二度と振り返らずに行ってしまった。
溺れた私を助けてくれて、でも邪魔したならと言った百目鬼さんは、次私が死にかけているとき助けてくれないかもしれない。
そうそう死にかけることはないと思うけど、何度も死に戻りを繰り返してる私が言えた口ではないけど。
いやいや、百目鬼さんとはいえ、その名前ではあるけど、鬼じゃないんだから、もしまた死にかけた時は助けてくれると思う、さすがにそこらの人情はあると思う、思うんだけど、正直分からない。
びしょ濡れの制服からぽたぽたと水滴が絶えず垂れる。
水路を見る。
トンネルを抜ける水路の先は、影になって見えない。
あの先に逝けば次の輪廻がある。
留まることも往くことも許された惰性の生、されど運命。
“身近な死”――それは私にとって常人のそれよりも密接なもので、きっと誰にも共感を得られない。
「ないってば」
せめて、私の投げやりな判断が彼女たちの邪魔をしないように。
夏の割りに冷えた百目鬼さんの目を思い出し、心の中で謝罪を重ねた。
END.