不透明な僕らは、
□過去編
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the end of happiness
生まれたばかりの娘は、腕の中ですやすやと気持ち良さそうに眠っている。
堺紀仁は病院の椅子に座って、力が抜けたように肩を落としてうなだれた。
「もう…どうにもならないんですか?」
口から出た声は、自分でも情けなくなるほど震えている。
そんな堺を悲しげに見遣りながら、目の前に座る白衣の男は息をついた。
「発見が遅すぎました…。出産により弱った体では、あと半月も持たないでしょう…。お子さんに影響がなかったことすら、奇跡というしかないほどなのです」
医師の言葉に、堺の瞳からは涙が一滴零れ落ち、娘を包む柔らかな布に吸収されて消えた。
妻、亜貴子の病名が告げられたのは、妊娠3ヶ月の時だった。
病気が発覚した時、既に亜貴子の体はどうにもならないほどの病魔に侵されており、出産は亜貴子にとって死を早める行為だった。
堺はすぐに亜貴子に中絶し、治療を受けることを提案した。
しかし、亜貴子は決して首を縦には振らなかった。
妊婦に薬の投与はできず、医師も出来る限りの努力はしてくれたものの、病気の進行をほんの少しだけ遅らせることしか出来なかった。
そして1週間前、亜貴子は出産した。
亜貴子の体は病気と出産により、半年も持たないだろうと判断された。
堺は腕に抱く小さな娘の寝顔を眺めながら、とぼとぼとした足取りで亜貴子がいる病室へと向かう。
「あなた」
ガラッと扉を開けば、以前より顔を青くした亜貴子が、それでも楽しそうに堺を呼んでいる。
そんな亜貴子に堺も笑みを浮かべ、ベッド脇にある椅子に腰掛ける。
「あのね、この子の名前、『陽菜』ってどうかしら?」
「ひな?」
堺の腕の中で眠る娘の柔らかな頬をツンツンと突きながら、亜貴子は歌うように『ひな』と繰り返した。
「太陽の『陽』に、菜の花の『菜』で、陽菜」
堺の脳裏に、あの日の光景が浮かぶ。
その様子を見て亜貴子もクスッと笑った。
「あの菜の花畑。私たちの思い出の場所でしょう?」
「ああ…。そうだな」
太陽に照らされた、一面の菜の花畑。
あそこで堺は、一生の妻を手に入れた。
我ながら、ムードも何もなかったと思う。暑く照り付ける太陽のせいで、体は汗だらけ。菜の花の香りにつられてやってきたはちの大群に襲われかけて、泥だらけになってしまったその直後に、何故か堺は今言わなければ、と思い立ったのだ。
突然の堺のプロポーズに、亜貴子はキョトンとした後、爆笑していた。そんな亜貴子につられて、堺も笑い出した。
青い空の下で泥だらけになって笑い続ける二人の様子を、通り過ぎる人たちは不思議そうに見ていたものだ。
「陽菜…か。うん、いいんじゃないか?」
懐かしさまで覚えてしまう思い出に、堺は頬を緩めながら頷いた。
亜貴子は嬉しそうに笑うと、陽菜の小さな手を包み込んだ。
「陽菜」
まるでガラス細工を扱うような、優しい声で亜貴子は陽菜の名前を呼んだ。
その微笑みは、どんなに有名な絵画よりも美しいと堺は感じた。
「ねぇ、あなた」
「なんだ?」
愛おしそうに陽菜を見ながら、亜貴子は話し出した。
「私はきっと、この子の成長を見ることはできないわ」
「…亜貴子、おまえ…」
優しく微笑む亜貴子は、泣き出しそうに顔を歪めた堺に首を振った。
「自分の体だもの。わかってるわ。…だからね、お願いがあるの」
俯く堺の頬にそっと手を当てて、亜貴子は堺の顔を上げた。
「私の分まで、陽菜の成長を見守ってあげて?そして、その成長を祝ってあげて?」
堺の瞳から、涙が零れた。
「私の代わりに、陽菜があなたの傍にいてくれる。だから私は安心できるの。陽菜はあなたの太陽だから、私がいなくなっても、あなたの進むべき道をきっと照らしてくれるわ」
だからね、と亜貴子は続ける。
堺の視界は、既に涙で歪み、亜貴子の笑顔もうまく写さない。
「泣かないで?あなたは独りじゃないんだから」
細く、痩せた指が堺の涙を拭う。
開けた視界には、優しく微笑む亜貴子の顔が映る。
またすぐに熱くなる目頭の熱を堪えて、堺は微笑んだ。
「亜貴子。…陽菜を生んでくれて、ありがとう」
俺は守るよ。
君が残してくれた命を。
君がくれた俺の太陽を。
亜貴子が眠る棺が燃える音を聞きながら
堺はそう誓った。
THE END