不透明な僕らは、

□第7章
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東京都某所。

堺紀仁は空から零れ落ちる雨に打たれながら、静かに泣いていた。

目の前には、ゆらゆらと水面に小さな少女が浮かんでいる。

数年前に亡くなった母親譲りの茶色い髪は、今や汚水に汚されて黒くなっている。
虚ろに開いた目に光はなく、小さく開かれた口にはゴミが入り込んでいる。

重たい腕を上げて、小さなその体に触れれば、何の抵抗もなく水の流れに乗って離れていく。

堺の瞳からは、堪えず涙が零れ落ちる。



「…ひな」



歪んだ視界で、我が子の体がどんどん沈んで行くのがわかった。急激に水位が下がっているのだ。
しかし、堺にはそれが、陽菜が自分の元から離れていっているように感じ、必死に陽菜の体を抱き寄せた。

小さな体はぐったりと力無く、雨よりも冷たかった。



膝下まで下がった水にバシャンと座り込むと、堺は陽菜の体を包み込むように抱きしめ、むせび泣いた。



ゴゴゴゴと迫り来る音に気付いた堺は、顔を上げた。
周りには叫び声を上げながら逃げ惑う人々がいる。

ビルよりも高い水の壁を見上げても、堺はその場を動かなかった。

ただ、ぼんやりとその壁を見つめる。



「…陽菜。あの向こうに、お前はいるのか…?」



小さな体を抱いたまま、堺は立ち上がった。

逃げ惑う人々にぶつかりながら、ゆっくりとした足取りで歩き出す。



「陽菜。亜貴子。ようやく…ようやく三人で一緒に暮らせるんだな…」



ふわりと幸せそうに笑う堺の瞳には、津波など見えていなかった。
ただその大きな壁に、陽菜と亜貴子が待つ光る扉が見えているのだ。
その扉を開けば、二人に会える。

堺は重たい腕をあげ、その光の扉に手を伸ばした。



「ああ…亜貴子…。待たせて悪かった」



冷たい濁流に飲み込まれながら、それでも堺は幸せそうに笑った。









第7章―シノビヨル、イシニガミ―
前編













「泉。もう行こう」



冷たく降り注いでいた雨が勢いを弱め、その代わりに白い雪が降り始めた空を見上げた阿部は、すぐ斜め前にいる泉に声をかけた。



「ダメだ。まだきっと、この辺りにいるはずなんだ」



雨が収まったせいか、次第に下がって来ている水を掻き分けながら、泉は近くの家の瓦礫の裏へと回り込んでは瓦礫と瓦礫の間を覗き込む作業を続けている。



「手が、届いてたんだ。あの時、ちゃんと掴んでいれば…」

「…泉…」



寒さでかじかんだ手が切れるのも構わず、泉はゴツゴツとした瓦礫を退けようと力を入れる。
そんな泉を見て、巣山と阿部はなんとも言えない表情で顔を見合わせる。



「…花井はきっと、近くにいるはずなんだ」

「泉、もう止めろ」



腰までありそうな瓦礫の山を崩しながら呟く泉の腕を、巣山は耐え切れずとった。



「この辺りにはもういないんだ。探し尽くしただろ?このままじゃ、泉が倒れちまう。学校へ戻ろう」

「…嫌だ」



巣山に腕を握られ、泉はその動きを止めた。
しかし、俯いた泉の口から出たのは、はっきりとした拒絶の言葉だ。



「花井を…学校へ連れて帰るんだ」

「どうやってだよ?花井はどこにいるかもわかんねぇんだ!このままここにいるわけにはいかねぇだろ!」



頑なに花井を探そうとする泉に、ついに阿部が怒鳴った。
巣山が阿部に止めろ、と目配せをすると、阿部は苛立ったように舌打ちをして口を閉じる。



「…わかってんだよ…」

「あ?」



ボソリと呟かれた泉の言葉に、阿部は訝しげに眉を寄せた。



「わかってっけど!でも!学校に戻って、田島に何て言やいいんだよ!?俺が手を離したせいで、花井は…!!!」

「あれは泉のせいなんかじゃない!」

「でも!俺が手を掴んでたら花井は流されたりしなかったんだ!!」



泉は巣山の説得を聞き入れようとしない。
どんな言葉を言ったところで、泉は花井のことに責任を感じるだろう。何を言えばいいのかわからず、巣山は悲しげに歯を食いしばった。



「じゃあ、お前はここに残って花井を探すか?」

「あ、阿部!?何を…」



しばらく沈黙を守っていた阿部は、突然そんなことを言い出した。
その言葉に驚いた巣山が阿部を見れば、阿部は普段と変わらぬ様子で泉をじっと見ている。



「お前がここに残って花井が見つかると思うか?それに、ここに留まるってことは、今運んでる薬の到着が遅れるってことだ。泉はこの薬を浜田に届けるためにここまで来たんじゃなかったのか?」

「………」

「病院出た時、地震があっただろ?学校だって被害が拡大してるはずだ。だからこそ、一刻も早く俺達は学校に戻らなきゃいけねぇんだよ」



阿部は真剣な面持ちで泉を見つめる。
水はすでに膝下辺りまで引いており、学校までは20分とかからず辿り着くことが出来るはずだ。

泉は地震によって目の前で崩れ落ちていった病院を思い出していた。
堅固な造りをしているはずの病院が、まるで積木が崩れたように崩壊したのだ。学校だって、尋常ではない被害を受けているはずだ。

学校に残して来たメンバーが全員無事であるという確証はどこにもなく、もしかすると、自分達が今持っている薬を必要としているのかもしれない。



「いったん戻って、それからまた花井を探しに来よう。もしかしたら、花井も学校に向かっているかもしれないし」



黙り込んだ泉に、巣山はゆっくりと言った。
その言葉に、泉はうなだれたまま小さく頷いた。



「……行こう」



歩き始めた阿部と巣山の後を追うように、泉も足を学校へと向けた。
一度だけ振り返った泉の瞳には、少しだけ雪が積もって白く色づいた街の痕跡だけが映っていた。






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