不透明な僕らは、
□第6章
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まるでプールみたいだな
花井はふと、そんなことを思った。
ゆらゆらと揺れる水面は濁っていて、底など全く見えない。
しかし、ホームのすぐ真下まで迫っているそれは、確かにプールサイドから見下ろした光景に似ている。
脳裏に浮かんだのはあの日の情景。
高校生なって初めての夏休み。
数少ない部活が休みの日に、野球部で市民プールに遊びに行ったことがあった。
プールサイドで走り回る田島達を叱ったり、終始仏頂面な阿部に苦笑いしたり、泳ぐのが1番早いのは誰か競争したり。
三橋は友人とプールに遊びに来たことなど初めてだったのだろう。凄く嬉しそうで、楽しそうだった。
それを見ながら栄口や西広と、来て良かったな、などと笑いあった。
とても楽しくて、充実した日だった。
あれからまだたった半年しか経っていない。
けれど、あの頃からは予想もつかない状況に俺達は陥ってしまった。
一体どうしてこんなことになってしまったんだろうか。
始めからこうなることが運命づけられていたのだろうか。
過去の日常がまるで夢物語のように感じる現在で、自分達はただこの一瞬一瞬を乗り越えて行く以外にないのだ。
この世界に、在り続けるために。
「……なんとかイケるか」
バシャンと水しぶきを上げて体を水の中に沈めれば、ちょうど胸の位置まで浸かった。
少年を抱えたり、背負ったりして歩くには少々きつそうだが、肩車をすれば少年は水に浸からず、花井も比較的両手が自由に動かせそうだ。
「よし、肩車するから、おいで」
「う、うん…」
少年は恐々線路側まで近づいて来る。
花井は少年に手を伸ばし、抱え上げた。
普段バッティングマシーンや大量のボールが入ったカゴなどを運んだりしているせいか、小柄な少年は花井の予想以上に軽かった。
少年を肩に座らせると、しっかり捕まっているように言い付けて花井は線路に躓かないように慎重に歩き始めた。
「そういえば、君の名前は?」
ホームから離れ、線路と線路の比較的歩きやすい所を歩いていると、花井はまだ少年の名前を聞いていないことに気付いた。
少年は降り続ける雨が気になるのか、目をゴシゴシと擦っている。
「……葉山、祐一…」
「ゆういち、か…」
『ゆういち』と少年の名前を聞いて、花井の脳裏に同じ響きの名前を一部に持つ少年の姿が浮かんだ。
学校へ戻ると約束した人。
強く、どこまでも真っすぐな瞳を持つ少年。
「いい名前だね」
ふわり、と柔らかく笑った花井の表情は祐一には見えないが、その声がとても優しかったからか、祐一は嬉しそうに小さくはにかんだ。
雨がまた少し、強くなった。
今の所水位にそれほど変化はないようだが、いつまたすぐ上がるかわからない。
今は祐一もいるため、出来るだけ早く帰らなければならない。
自然と速くなる足に絡まる水を煩わしく思いながら進んでいると、頭の上から声がした。
「今から、お兄ちゃんの学校に行くんだよね?」
道すがら祐一には花井達の行き先を伝えていた。
祐一はまだ小学生なため、高校に行くことに対してドキドキしているようだ。
非常事態には変わりないが、ずっと怯えているよりはいいだろうと花井は西浦高校がどんな所かを祐一に話して聞かせていたのだ。
「お兄ちゃんのお友達に早く会いたいな!」
楽しそうに笑う祐一に、花井は心の中でホッとしていた。
素直について来たとは言え、始め祐一は母親を失ったショックから暗い表情をしており、あまり口も開かなかったのだ。
「きっと、祐一も仲良くなるよ」
学校で自分達の帰りを待つメンバーを思い浮かべて、花井は笑った。
「もうちょっとだ」
しばらく歩いて行くと、ようやくフェンスの終わりが見えて来た。
駅から見た分にはそれほど遠くは見えなかったが、直線だったのもあるせいか、予想以上に距離があったのだ。道路に顔を向けると、阿部達も順調に進んでいるのが見えた。
雨はまだ強くなっている。
ふと、花井は不思議なことに気がついた。
雨は依然、強まり続けている。
しかし、水位は全く上がっていない。
むしろ、下がっている気がするのだ。
ホームから降り立った時水位はどの辺りだったか、花井は思い出そうとした。
浸かった水は、花井の胸までの高さだった。
「……まさか…」
ようやくフェンスの切れ目にたどり着いた時、花井は言葉を失った。
今や、水位は花井の腰上まで下がっていた。
花井が気付かない程に僅かずつ下がっていた水は、突然何かに引っ張られるように左から右へと流れていく。
動きながらも水位をぐんぐん下げていき、あっという間に膝下まで下がった。
「お兄ちゃん…アレ……なに…?」
呆然と立ち尽くしていた花井の上から、恐怖に引き攣った祐一の声が聞こえた。
下に向けていた顔を上げて、祐一が指差す方へと視線を向ければ、遠く、壊れた建物が建ち並ぶその奥に、水の壁が出来ていた。
「……マジかよ…」
花井は驚愕に目を見開いた。
「花井!!!」
津波とは逆の方向から巣山の声が聞こえて来た。
反射的にそちらを振り向けば、巣山たちが500メートル程先にいるのが目に入る。
「走れ!!!津波が来るぞ!!」
泉たちは、すぐ近くにある電柱の傍に立って花井を呼んでいた。
津波から逃げ切ることは不可能だと判断したのだ。
花井はすぐに祐一を肩から下ろし、抱き上げると水位が下がったお陰で幾分走りやすくなった道を必死に走った。
「急げ!!!」
泉達が口々に叫ぶ。
花井は必死に走る。
ゴゴゴゴ、と津波が立てる地響きにも似た音が耳元で聞こえるようだ。
祐一の小さな体をギュッと抱きしめて走る。
あと100メートル。
背後から、雨とは違うとわかる水しぶきが飛んでくる。
あと50メートル。
泉たちが電柱にしがみついて、花井の背後に目を向ける。
あと10メートル。
泉が手を伸ばす。
花井も手を伸ばし、泉の手をとろうとした。
泉の手と、花井の手が触れ合った瞬間。
5人を冷たく固い、水の塊が襲った。
数分後、荒れ狂い、殴り付けるような水は嘘のように静まり返った。
あまりに強すぎるその水の塊に流されそうになりながらも、必死に電柱にしがみついていた泉達はゴホゴホと噎せながら、ゆっくりと目を開いた。
水位は、また胸の位置まで戻っていた。
「………嘘だろ……」
ポツポツと、先ほどよりも少しだけ弱まった雨が、濁流で汚れた泉の顔を洗い流す。
その頬に一筋、雨とは違う雫が流れた。
泉は、空っぽの右手を呆然と眺めた。
その手に、一瞬感じたあの体温は残っていない。
「…………はな…い……」
雨に揺れる水面は静かに、擽るように泉達の胸元に小さな飛沫を当てる。
ほんの数分前までは、確かにいた存在が、たった一瞬で静かに揺れるこの水に、奪われて行った。
泉の頬を、幾筋もの雫が流れて水面に新たな波紋を生み出していく。
雨はまだ、止まない。