長編小説
□タイトル未定
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揺れた人形が、鈍い音を立てて横様に倒れた。
今更ながらに俺の背筋は凍りつき、目は見開いたままに動けなくなった。
見つめる人形が、倒れた反動で未だに僅かに揺れている。俺は何故か目が離せなかった。
―――ぅ、……あ…っ
研ぎ澄まされた聴覚に、苦しんでいる様な呻き声が聞こえた。それは息も絶え絶えに、必死に呼吸を繰り返している。
信じがたいが、それは揺れる人形から発せられているとしか思えない。
やけに生々しく、近くに聞こえる息遣いに、――不謹慎ながら――凍り付いていた筈の背筋がゾクゾクした。
人形の揺れは止まらず、一度大きく揺れた後にぴたりと止まったと思った瞬間。
「あああ……っ!」
掠れながらも鋭い声が、静かな夜の空気を裂いた。
その叫びと同時に、暗闇に沈んだ床の間に、明らかに人形より大きな影が唐突に浮かび上がった。
その人影は激しく上下し、まだ呼吸が整っていないと解る。
人形では無く、それははっきりと人間の形をしていた為、俺の恐怖は些か薄れた。
ついでに人影が余りにも苦しそうで、なかなか呼吸が落ち着かない様に見えて、心配になった俺はそっと布団を抜け出して襖を大きく開けて人影に近付いた。
暗闇でも、障子を抜けて入ってくる近くの家の灯りが、ぼんやりと部屋を照らしていた。
人影は――暗くてよく解らないが――暗色の着物を纏い、うなだれて肩を上下させ、右手で喉元を庇う様に覆っていた。
「―――大丈夫か…?」
小さく呟く様にそう声を掛けると、人影はぴくっと反応し、ゆっくり顔をこちらに向けた。
外の道を、眩しいヘッドライトを携えたトラックが、けたたましい音を立てて通り過ぎる。
その瞬間がまるでスローモーションの様に感じられた。
その人影は、人形の容姿によく似ていた。
しかし、磨き上げられた真っ白な人形の肌と、生身で目の前にうずくまっている人物の肌が大差無いのはどういう事だろう。
髪はおかっぱでは無いものの、前髪を切り揃えた特徴的な髪型で、こちらもまた人形と大差無い濡れたような漆黒だ。
俺は部屋の隅にある小さなランプシェードを手探りで探してスイッチを入れた。
「……随分な図体だな、」
艶やかな声に振り向くと、はっきりと顔立ちが解る様になった人物が、ようやく呼吸が落ち着いてきたのか静かにそう言った。
軽く伏せられた瞼には長い睫、僅かに開いた唇は、人形とよく似た艶やかな桜色。喉元を覆う指先は細長い砂糖菓子。
男とも女ともつかないその容姿に、俺は暫く見とれていた。
「…いや、俺とそう変わらないか」
そう言い切るや否や、“俺”と言った彼は激しく咳き込んだ。俺は思わず彼のすぐ傍にかがみ込んだ。
「大丈夫か…」
「……へいきだ」
俺はその時、さり気なく彼の肩に手を乗せていた事に気が付いた。
彼は呼吸を落ち着ける事に専念しているらしく、気付いていない様だった為、さり気なく離した。
「……お前は誰だ」
こっちの台詞だと言いたいのを堪え、俺は答えた。
「…真田弦一郎」
「弦一郎か」
彼はゆらりと立ち上がり、着物の裾の皺を伸ばし始めた。
先程彼が言った通り、彼の背は俺と同じか僅かに高い位だろう。細身で色白、くせの無い顔立ちをしているからか、やけに儚げな印象である。
「……お前は?」
きちんと着物を押さえながら正座する彼を見ながら聞いた。
「蓮二」
短くそう答えた蓮二は、口元に薄い笑みを浮かべた。
蓮二、と口の中でそう呟き、一番気になっていた事を聞こうと口を開いた―――が。
「400年振りの“外”の空気だ。やはり多少不味くなったな」
表情は薄い笑みを浮かべたまま、声色だけ落として蓮二はそう言った。
「―――お前は何者だ?」
いきなり現れ、400年振りとか言っているし、俺は訳が解らずそう聞いた。
無理も無い、と蓮二は笑う。
「400年振りに呪いが解けた―――あの人形から出られた」