短編小説
□良薬は
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―――やなぎ……
遠退く意識の中で、まるで霧の向こうから聞こえてくるその声が。
やけに心地よかった。
―――良薬は―――
いくら厚い毛布や上等な羽布団にくるまっても、背中を這う様な寒気を払う事は出来なかった。
そのくせ寝間着代わりに着ている長袖のシャツや薄手のスラックスは、滲み出る汗でしっとりと湿っていた。
その不快感を解消する為に起き上がって着替える気力も無く、俺は頭を内側から金槌で打たれる様な激しい頭痛に耐えていた。
―――ふと、物音が聞こえた。
それを気にして、背を向けている部屋のドアを振り返る気も起きず、一段と激しさを増した吐き気と頭痛に力一杯目を閉じる。
「…柳…」
聞き慣れた、心地よい声。
遠慮がちに近付いてくる、フロ−リングを擦り足で進んでくる人物は。
朦朧とする思考でも、考える必要も無く必然的に脳裏に浮かび上がる、愛しい人。
「に、お…、か…」
渇いた喉から絞り出す様に呟くと、微かにベッドのスプリングが沈んだ。
「…大丈夫か」
優しい彼の声と一緒に、顔の横に手が延びてきた。
こめかみに張り付いた前髪を、ほっそりした白い指先が払ってくれる。
うっすらと目を開けて、頭に響かない様ゆっくりと仰向けになると、心配そうに眉をハの字にした仁王と目が合った。
「…部活終わったから、来たんよ」
「あ…、ああ…」
「つ、…辛いん?」
その問いに、肯定の意味を込めてゆっくりまばたきした。
それを正確に理解した彼は、珍しく慌てた様に、自分の鞄に手を突っ込んだ。
鞄から出てきた彼の手に握られていたのは、一枚のタオルと真っ赤な林檎が一つ。
ベッドのすぐ脇にしゃがみ込んで、遠慮がちにタオルで俺の額の汗を拭う彼の手。
その表情は、普段の不敵なものとは似ても似つかない不安げなもの。
その物珍しさに見入っていると、彼は一度手を止めて、林檎をそっと差し出した。
「食べれる?」
腹は減っているが、とても喉を通るとは思えなかった。
ゆっくりと首を横に振ると、彼は悲しそうに林檎を鞄に戻して、代わりに白い小さな箱を取り出した。
「…じゃ、薬だけ…」
言いながら彼は、手を延ばして掛け布団を足元から捲り上げた。
素足にひんやりした空気が触れ、寒気と心地よさが同時にやってきた。
薬を飲むのに、何故そっちを捲るのかと、当たり前の疑問がよぎったのも束の間。
這い上がってきた彼の冷たい手が腰の辺りに触れ、するするとスラックスを俺の足から抜き取っていく。
何事がと少し首を捩ると、激しい頭痛に見舞われ、俺は仕方無く頭を枕に預けた。
代わりに口を開く。
「な、にす…。仁王…」
「薬じゃ」
彼の声は真剣その物で、いつもの行為をする訳では無いとははっきり解ったが、今何をするつもりなのかは解らなかった。
彼の手は下着にも延び、それも同じ様に下ろされていく。
下半身には何も纏わず、掛け布団も捲り上げられている状態の俺の脇で、仁王は先程の白い小さな箱を手に取った。
「こっちの方が、早く効くんよ」
そう言う彼の言葉をぼんやりと聞きながら、俺は唐突に、未だに慣れない感覚を感じていた。
本来、排泄器官であるその場所は、受け入れるという真逆の行為を、無意識に受け入れんとする。
「ん、」
「力抜いて、柳」
朦朧とした意識の中に、突如浮かび上がる決定的過ぎる刺激。
ただそれだけに感覚を委ねた。
のめり込む冷たい小さな球体、それを押し込む彼の指。
自然に上がる呼吸をあやす様に、仁王は空いている手で優しく俺の腕をさする。
「もうちょっとやから、」
「う、…っ」
目を醒ませば、濡れたタオルで俺の上半身を拭く仁王と目が合った。
いつの間にか下半身に違和感は無く、汗を拭き取り服も替えてくれたのか、不快感も全く無くなっていた。
「…目ぇ醒めたかい」
体を拭く手は休めずに、彼はほっとした様に微笑んだ。
あんなに酷かった頭痛や吐き気は緩和され、先程押し込まれた妙な物の正体がやっと解った。
「…座薬か…」
「そうよ」
仁王は替えの長袖のシャツを俺の頭の横に置いた。
「ほい、楽んなったら自分で着んしゃい」
「…悪いな」
「気になさんな」
言いながら彼は立ち上がり、鞄を肩に掛け、俺に背を向けた。
「…仁王、」
「なん」
ドアノブに手を掛けたままこちらを振り返る彼に。
「―――どうやって入って来たんだ」
閉まっていた筈の玄関のドア、戸締まりもした筈の窓。
彼はいつもの不敵な笑みを浮かべて。
「俺はサンタクロ−スなんよ」
にやりと悪戯にそう言い、閉まるドアの隙間に消えていった。
「サンタクロ−スが座薬か」
思わず、頬が緩んだ。