短編小説
□紫陽花
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今更傷付く事なんて、ないと思っていたのに。
この傷が、更に深く抉られる事なんて、ないと、そう思っていたのに。
―――紫陽花―――
『…すまん、蓮二』
忘れたいのか、そうではないのか。どちらにしても、忘れられないだろうが。
やけに耳に残る愛しい男のその声は、いつまでも頭に響いて、最早痛みさえ催す。
『―――どうして、弦一郎、』
『…俺には、もう、心に決めた人が』
―――それが誰なのか。
『そいつが、好きなんだ』
彼がどれほど本気なのかも。
『真田!部誌書いてよ!』
『…すまん幸村、すぐ行く』
(もういい、)
『時間を取ってしまって、申し訳なかった。それじゃあ』
―――俺が駄目な理由が、全てわかってしまったから。
「おう参謀、どうしたこんなとこで」
5限目、一人で空を眺めていた。
今日に限って、憎らしい程の抜ける様な青空で、そんな青空の下に、いきなり奇抜な色をした頭が飛び出してきた。
「―――仁王」
「珍しいのう、お前さんもサボりかい」
「…お前はサボりか」
「俺もお前も変わらんよ」
くくっと楽しそうに笑う彼は、当たり前の様に俺の隣に腰を下ろした。
コンクリ−トのひんやりした床は、暖かい日差しと中和して心地良い。
「浮かないカオしとるな」
俺の表情を覗き込むでもなく、彼も俺と同じ様に流れる白い雲を上に眺めながらそう言った。
思わず俺は隣の彼を振り返った。
「…どうしてそう思う」
「毎日見とるカオじゃけ、手に取るようにわかるぜよ」
悪戯好きな子供の様に、ぺろっと舌を出してこちらを向く彼の表情が。
「…どうした柳」
彼にそう心配そうに問われる程、魅力的だったから。
思わず口を噤んで、きょとんとした彼の顔を見つめてしまった。
すると彼は、
「参謀柳が隙だらけやね」
呟く様にそう言いながら、こちらに身を乗り出してくる。
近付いてくるその顔から目をそらせないまま、俺は彼の薄い唇から紡がれる言葉を聞いた。
「油断しとると、喰っちまうぜよ」
生唾を飲み込んだ、自分自身の真意もわからないまま。
「好いとうよ」
未だ脳の端を支配する誰かに紡がれることを望んでいたその言葉は。
思いもよらない胸の高鳴りと共に沁み入ってきた。
「…に、おう…」
「なん」
近すぎるその距離のまま、仁王は俺の今の状況を熟知しているかのように、ただ俺に近寄ってくる。
「…目ぇ、開きんしゃい」
囁くようにそう言われ、俺は言われるままに目を開いた。
悪戯な目を目の前にして、俺は思わず羞恥に駆られる。
(俺が好きなのは、)
「好いとうよ」
(好き、なのは、)
「―――仁王…」
下限に歪む切れ長の吊り目。
意地悪く弧を描く唇。
「…な−んてな」
同時に響く終業の鐘。
穏やかに流れる白い雲。
「お忘れかい、俺はペテン師」
ぜ−んぶ、嘘じゃよ。
屋上に一人、残された俺は。
今更傷付く事なんて、ないと思っていたのに。
この傷が、更に深く抉られる事なんて、ないと、そう思っていたのに。
一度弱った気に漬け込まれて、からかわれただけかと。
そしてそれにまんまと騙された俺も。
(まるで、紫陽花)
紫陽花
―――移り気