短編小説
□伯牙、琴を破る
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帰って来い、氷が融ける前に
―――伯牙、琴を破る―――
「そう言えば蓮二、新しいシュ−ズの受け取りには行ったのか」
ふと、隣で練習着に着替える彼が、同じくする俺を横目で見ながらそう言った。
「いや、まだだ」
「俺の注文した品も今日届いている筈なんだ」
「そうか」
「ついでに引き取ってこようか」
珍しい気遣いに、俺は思わず彼の方を見た。
「いいのか」
「暑さは苦手だろう」
そして彼は、まだ衣服を纏わない裸の俺の肩に手を乗せて。
「練習が終わったら行って来る。帰ったらシュ−ズの慣らしに一試合どうだ」
「勿論」
穏やかに、しかしお互いに受けて立とうと。
コ−トの上では決して見せない、ふ、と綺麗に微笑む彼は、
俺が、親友と言う無難な肩書きに紛れて、他の感情を抱いていようとは。
知る由も無い。
「真田副部長、どこ行くんすか」
練習後、着替えもせずに部室を出ていこうとする彼に、赤也がそう尋ねた。
彼はドアの前で、自分の肩越しにこちらを見た。
「俺と蓮二の、シュ−ズを引き取りに」
「参謀は行かんのか」
仁王の訝しげな声に、俺も弦一郎も、思わず口元を綻ばせる。
「暑いのは苦手らしいからな」
「冷たい物でも用意して待っていてやるよ、弦一郎」
その俺の言葉に彼はまた、ふ、と微笑んで。昼過ぎの高い太陽の下へ。
逞しい背中をこちらに向けて、出て行った。
「柳くんは帰らないのですか」
「ああ、弦一郎と試合の約束を」
着替えを済ませて部室から出て行く仲間を見送り、俺は部室にひとりになった。
窓から見える空は、鮮やかな夕焼け。差し込む橙色の光が、整然と並ぶアルミのロッカ−に反射する。
西日の眩しさに少し眉を寄せつつも、窓の外を見ていると、何故かどうしようもなく落ち着かずに。
部室に備え付けられている冷蔵庫から、氷と麦茶を取り出して、コップに注ぐ。
ぱきぱきと氷にひびが入る音が、静かな部室にやけに響いた。
コップの中で揺れる氷を、じっと見下ろして。
(―――早く、)
弦一郎、もう日が暮れる。
日があるうちに、試合をしよう。
(弦一郎、)
帰って来い、氷が融ける前に
―――星が瞬き始めた頃。
「柳!!」
待ちに待った、ドアが開く音なのに。
「真田が―――」
―――氷は、すっかり融けていた。
熱いアスファルトに投げ出された彼の体の傍らには、
真新しいテニスシュ−ズが、二人分。
―――蓮二、麦茶をご馳走様。
(打ち返せ、)
―――蓮二、
(試合をすると、言っただろう)
誰も居ないコ−トに、打ち返される筈の無いボ−ルが。
―――蓮二、試合をしよう。
音も無く、転がっていった。