短編小説

□帚木(ははきぎ)
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「誘っているのか」
「さあ、どうだろう」





―――帚木(ははきぎ)―――





鳥の声さえしない、静かな朝。

二人分だった筈の温もりが、何時の間にか一人分に減っていた。

上半身だけ起こし外気に肌を曝すと、身を刺すような冷気に鳥肌が立つ。

その冷気に耐えながら立ち上がり、縁側に通じる障子を開けると。

そこに居なくなった温もりがあった。



「おはよう、弦一郎」



銀世界に紛れる様に。

蓮二ははだけた着物一枚で、真っ白な雪が積もり、今も降り続いている庭に立っていた。



「お前にしては遅起きだな、寒さは苦手か」



そう言って、蓮二は雪の中で微かに微笑んだ。



「何してる」
「雪を見てる」
「そんな格好で、寒くないのか」
「案外そうでもないぞ」



花の無い椿の濃緑の葉が、散らつく雪に霞む。厚い雪雲で日が入らないせいか、辺りは薄暗い。



「風邪引くぞ」



縁側からそう声を掛けても、蓮二は舞う雪片を眺めながら微笑むだけで。

腰を屈めて、積もった雪をすくい上げる白い指先は、染めた様に紅かった。



「入れ、蓮二」
「こっちに来いよ、弦一郎」



寧ろ縁側から遠ざかる様に歩き、振り向きながら笑う蓮二の目元も。

狂い咲いた真っ赤な椿の様に。



「ほら、こっちに来いよ」



蓮二は、おもむろに自分の着物の襟を広げ、帯だけで着物を着けている状態になった。

―――白い、雪が。

その肌の上で、消えた。

相変わらず優美な笑みを浮かべる蓮二は、胸の上で融けた雪を、掌でゆっくりと拭う。


―――帚木の



「…蓮二、」



下弦を描く口元にも、雪片は舞い落ちて。その真っ赤な椿の花弁の様な唇に融ける。


―――心を知らで園原の



「誘っているのか」



俺のその言葉に、蓮二は妖艶な笑みを見せて、音もなく俺に歩み寄って来た。

頬に延ばされた、蓮二の指先は、氷の様で、



「さあ、どうだろう」



―――道にあやなく惑ひぬるかな


温もりよりも、欲情した。



「…蓮二、」



思わず延ばした両腕は、呆気なく冷気を抱いた。

すり抜けた蓮二は、やはり笑みを浮かべたまま。



「そうはいかない」



冷たさに欲情したのなら、雪と戯れていればいい。



そんな事を俺に吐き、さっさと中に入っていった。



(…お前が雪なら、)



頬に残った、蓮二の指先の感触に、そっと自らの手を重ねる。



(春が来る前に、融かしてやるのに)





―――近寄れば消えるという帚木の様に薄情な人とは知らないで、あなたに迷ってしまったものだ―――





源氏物語―帚木―より
源氏から空蝉へ

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