短編小説

□鳴かぬ蛍が
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「なあ、弦一郎」
「なんだ」
「…いや、何でも」




―――鳴かぬ螢が―――




「螢を見に行かないか」



茹だるような暑さがようやく収まった夏の夕方。遅咲きの紫陽花が夕日に染まり、まるで気の早い祭の提灯の様で。

俺は隣で共に歩を進める弦一郎のその言葉を、うっかり聞き逃していた。



「申し訳ない、今何て」
「螢を、見に」
「…螢」
「ああ」



彼の横顔はいつもと変わらず、特に他意も無く、ただ。

螢を見に行こうと。



「子供の頃はよく見たものだ、今の時期田舎の小川の畔には螢がたくさん飛び交って」
「ここじゃ飛び交うのは蚊くらいな物だものな」
「そうだな」



微かに口角を上げた彼の穏やかな表情に、やはり他意は無く。

しかし俺はまだ、誘いに答えは出せずに。



「蓮二、どうする」



こちらを振り向いた彼の目は、橙色の夕日を映し込んでいて。

あの提灯の様な紫陽花の如く。



「…ああ、行こう」



ほら、彼はこんなにも。

柔らかく俺に微笑み掛ける。





小川のせせらぎを聞きながら彼と歩くこの道は、彼が幼い頃によく通ったと言う。



「涼しいな」
「ああ」



今日は少し、彼が先を行く。俺は彼の広い背中について行く。

その先にいるであろう螢の光は、まだ見えない。



「おかしいな、昔はこの辺りで」



そう言う彼は立ち止まり、膝辺りまで繁った草を、そっと掻き分けた。

その奥には、さらさらと細い川が流れていた。



「…いないのか、弦一郎」
「わからん」



そう言う彼のしゃがみ込んだ後ろ姿は、何時になく寂しげに見えた。

暮れ掛けた夕日が背の高い樹木の影に隠れて、何時しか星が瞬き始める。



「弦一郎、星が」
「…ああ」
「綺麗だぞ」
「…すまない」
「……………」



俺は彼の後ろに突っ立ったまま、謝罪の言葉を零す彼を、じっと見つめた。

彼は相変わらず、静かな小川の流れを見守っている。

さり気なく俺は、彼の隣にしゃがみ込んだ。



「なあ、弦一郎」
「なんだ」



こちらに少しだけ目を向けた彼の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめるのが。



「…いや、何でも」
「蓮二、」



彼の節の浮き出た手が、突然横から延びてきて、俺の耳の辺りに触れた。



「どうし、」
「螢だ」



そう言って戻っていった彼の掌の中には、ぼんやりと光る小さな螢。



「…螢」
「ああ」



彼の掌を、小さな光はひたすら動き回っている。辺りは既に暗く、その儚げな光と無数の星だけが俺達を照らした。



「弦一郎」
「ああ」
「…綺麗だな」
「ああ」



暗いから彼は気づかない。俺は螢に魅入る彼を見つめていた事など。

気づいていたのは、きっと。



「―――あ、」



ひらりと彼の手から舞い上がった、あの小さな螢だけ。

お前はまるで、身を焦がすように、鳴きもせずに。



「…帰ろうか、蓮二」
「…ああ」



―――鳴かぬ螢は、



「螢見せてくれて、ありがとうな。弦一郎」



身を焦がす。

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