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□八重の埋み火―中編―
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 灯せや、ひたすらに。





 矢野和泉守正倫には果たさなければならない宿願があった。
ひたすらに望む願い果たさなければならない宿願それは、中村家の再興。中村一氏が子、中村一忠亡き後無嗣改易の憂き目にあった中村家には、二人の男児があった。家康の養女であった正妻に憚り届けでていなかった庶子である二人の内、兄を正倫が、弟を正倫の弟である正綱がそれぞれ盛りたてると誓い合い、正倫のみ入城した大坂の城。
 豊臣が天下を獲った暁には、中村家の再興を。
「……っ怯むな!前へ出ろ!!」
 ただそれのみを胸に、今こうして正倫は豊臣軍大野治長が部将として、今福堤に立っている。
迫る佐竹軍を防ごうと最も前線へと据えられた柵にと立ち檄を飛ばそうとも、後方の兵は上空から降り注ぐ鉛玉に恐れをなし正倫や前線の兵のいる前方へと後詰めに来ようとしない。上空から、鉛玉。正倫はぬめる水田を抜けた折に泥で汚れた顔を、舌打ちに歪めた。やってくれる、怒声と悲鳴の折り混ざる雑音など捨て置き柵の向こうを睨むその唇が、音無く刻む。
 銃口を上へと向け放ち、吐き出す鉛玉を敵の後方目がけ落下させる戦法。戦とはたった一つのささやかなきっかけさえあれば、容易く恐慌へ陥る場であることをどうやら、佐竹軍の人間は理解しているようだった。それは正倫も同じであり、であるからこそ湧き出る焦りに汚れた頬を汗が伝う。伝った汗は、顎を伝い汗のたまりを具足に作る。拭う暇すら無かった、手綱を握り直し馬上から見渡す柵の向こう広がる佐竹軍が止まることを知らない波のように、互いを隔てる柵めがけ一層勢いをつけ迫る様を皮膚に感じ取った、正倫には。
「来るぞ、必ず抑えろ先へ行かせるな!!」
 後詰めのこない今、柵を守る前線はひどく薄い。もしもここへ一気に攻めかかられたらどうなるのか、誰もが考えることだろう誰もが容易くその答えを得ることが出来るだろう。誰もが分かっていた、叫ぶ正倫の声は虚しく悲鳴に呑まれ消えていく。
 必ず、突き崩される。
「和泉殿……これ以上は…!」
 正倫の手に握られる手綱がぎりと、鳴った。
佐竹軍の勢いは止まらないこのまま恐らく柵は突き崩される。容易く予想出来る事態が、一枚絵のように正倫の頭へ瞬時に浮かんでは、消え、怒涛の如く頭を叩く叫びに悲鳴に怒声に銃声に決断は、下される。鋭く吐いた呼気と共に、馬の首を返した。
「撤退する!!各々、城まで……」
「和泉殿!」
 半ば、悲鳴に近い叫びが正倫の名を呼んだ。
押し寄せる波濤が、柵を呑み込んでいたまさに、恐慌。味方と混ざり合い味方を呑み込み波濤が迫り正倫は、ほんの僅か一瞬のみ、目を伏せ、ひらいた。返したはずの馬の首を手綱を繰り再び前方へと差し向ける血臭と硝煙の立ちこめる只中で引き絞った口が、歪むことはない。矢の首へ刺さった馬が、棹立ちになり地面へ落とされようとも腰へ佩いた太刀を、受け身を取りながら引き抜き立ち上がる。
 泥と血に、塗れ。
「……早く、撤退しろ!!」
「正倫様…お怪我は…!」
「下がれ」
 駆けよる部下の肩越しにあった槍を構える雑兵の首を、具足の隙間を縫い太刀で裂く。
そのまま太刀を抜かずに血を迸らせる雑兵の手から槍を奪い正倫は向き直る、押し寄せる軍勢の波へ。最早味方と敵とか完全に混ざりあい統率などどこにも見えなくなった様、しかしそれでも出来る限りを撤退させなければならなかった。それが義務だと、正倫には思えた。
 構えた、槍。
 この有様では、今更下知など何の意味も持たない。
「大野修理亮治長が部将にして、中村家が家臣矢野和泉守正倫!」
 最後の手段を彼は取る。
逃げ惑う味方に紛れながら凛然と、己自身を囮とする、手段を取る。散漫に当たりへ流れていた波濤はそれを皮切りに明確に明瞭に押し流す矛先を定めたようだった。
「我が首獲りたくば、来い!」
 中村家の再興、願い続けた宿願。
一人二人と槍を振い薙ぎ倒し正倫の頭へ浮かぶものは、何であったのか。三人四人五人六人、薙ぎ倒し蹴り倒し更に群がる雑兵の渦中で獣にも似た声を迸らせる。
 必ずや御身を盛りたてると亡き主君の子へ誓った。
腹を貫いた槍が、一本、掠れた呼気と共にその口から零れた血が数滴。背中を腹を脇を槍に貫かれた時、正倫のぐらり前方へ傾いだ体はそれでも最後に一歩、踏み、込んで。飛んだ泥の飛沫血に混ざる。震える槍握る腕が前へ突き出されあまりにしかしそれは、何かを打ち倒すには弱きに過ぎた。
 彼の幕を落とすがための、最後の止めが穿たれる。
「………っ………だ…さま…」
 脇腹から刺し貫く槍に傾いだ体は歪な痙攣一つを起こしあとは、ただ、目をみひらき沈黙を身に纏う。泥に塗れ血に塗れ御家再興のみを胸にここへ立っていた彼の全ては、ここで途切れた。薄くひらかれたままの乾いた血に汚れた口が何を紡ごうとしていたのか誰かの名前であったのか、知ることはできない。戦の場、響くのはただ歓声怒声悲鳴これのみであるのだから。
 今福堤、矢野和泉守正倫は、討ち取られた。



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