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□彼がある意味について
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「頭領!」
 強まる戦への蠢動が薄い膜を突き破りそうになっていようとも、実際に膜が突き破られ事が起こらなければ俺がやるべきことはそう多くは無い。川での運送の仕事を監督し、行商人の護衛をし田畑を耕し同じ川並衆の連中と時々顔を突きあわせる。そんなもんだ。だからこそこうして村の屋敷で一人爪を切ったり出来ていたわけだが。六つか七つになる子供は今頃どっかで遊び回っているだろうし、嫁は村の女に呼ばれ手伝いへと行っている今ここへは俺しかいない。
 空が紫のたなびきを帯び始めた夕の頃だった。足の爪を切っている俺へ、若い衆の男が飛び込んできたのは。
「ん?どうした」
 爪を切る手を止めることなく俺は問う。くそ、さすがにこの時間帯に爪を切ろうとするのは無謀だったか、空が青さを喪失するに伴い部屋の濃淡が薄暗がかってきた今の俺にとって優先順位は誤って爪でなく指を切ってしまうかどうかだ。屋敷の外から喧騒がするわけでもなし、飛び込んできた男から血臭がするわけでなし。
「何か、妙な奴が頭領に会いたいって来たんですけど…。どうします?」
「男か、女か」
「男です。馬にこそ乗ってはいませんでしたが、割かし身なりは小奇麗な感じの、その……ちっさい奴です」
 小さい。男。切った爪が固い音をたて板敷きへと落ちる。小奇麗な身なりって点じゃあまったくもって思い浮かぶものもないが足の爪を切る手を止めた顔を上げた、奇妙な訪問者は小さい男反芻し両目を眇める。
「他には何か無いか、特徴」
「他に、ですか。何かこう、妙に目がでかくてですね……はしっこ、そうな……」
「ああ、分かった」
 驚いたな、目が妙にでかいはしっこそうな小さい男がこの屋敷を訪れたことにじゃない俺が驚いているのは、あんまりにも心臓が肋骨を叩く回数が変わらない俺自身に対して。驚いていないのだ俺は。むしろ当たり前の事実として受け入れいる節さえある小さな男がこの屋敷を訪れたことに対して今も、怪訝そうに眉を少しだけ潜めた若い衆の更に後ろから子供が廊下を走る程度の足音が徐々に徐々にしかし明確にはっきりと聞こえ始めたこの瞬間も。
 奇妙な、予感だったのかもしれない。もしくは奇妙な信頼だったのかもしれない、
「よぉ、相変わらず躾のなってない奴だな」
「勝手のわかっとる家ん前で待たされよること程、苛々するもんもにゃーで」
「え、あ、うわ!」
 戸口に立つ若い衆の横から顔を覗かせる小さな、大きな目をしたはしっこそうな男に対しての。予感と信頼。
言いたいことが絡まって口から出てきそうにない若い衆の腰を一度叩いた小さな男は、横をすり抜け素足の足が薄闇を踏む。格子窓から入り込む明かりは既に乏しくじんわりとのみ滲むそれに影を伴い浮かぶ闖入者の面、ああ、当たり前の事実が今俺が立ち上がり一歩近づき手を伸ばせば触れることの出来る距離にある。
 だが、立ち上がるよりも手を伸ばすよりもまず先にどうして良いのか戸惑いを見せている若い衆を、何とはしてやらなくちゃならない。軽く俺は笑い手を振る。
「下がって良いぞ。俺の客だ」
「あ、はい!」
 確かあの若いのはまだ十代の後半頃だったか、そうだったのなら覚えてないのも無理はないそもそも、まだ生まれてなかったかあいつは。軽く頭を下げた若い衆が入ってきた戸口から出て行くのを横目に見送った客は、大きな良く動く双眸へと映す対象を俺へと切り替えている。
「なんじゃ、立派に一応頭領やっとるのかのん」
「お前が出て行く前から、俺は頭領だったろうが」
「あー、そういやそうやった気がせんでもにゃーかのう。にしても相っ変わらず土臭い村のまんまで、俺は安心したぎゃ」
「お前も相変わらず、小さいまんまだな。ただ、格好だけは随分マシになったじゃねぇか」
 片膝を立て板敷きへと座るまま俺は、片頬を吊り上げ相も変わらず童のような体付きのまんまだが唯一、俺の記憶とずれを見せるそれ。客もまた、片頬を吊り上げた。
「どっか、奉公先でも見つかったか」
 小さな体に擦り切れたでかい着物を纏って、腰を赤い紐で結った格好では無い。
 小奇麗な、小袖姿。
「ああ。清洲の織田様だ」
「ということは、織田信長か。随分博打な所に行ったもんだ」
「博打を打たにゃー所じゃ、俺はなーんも出来ん」
 そうかと、特に気も無く返した俺は影を薄く纏う客の顔を眇めた両目へと映す。
こいつがここを出ていったのは十代の前半も良い所な年齢の時だったか。あれから大分経っているのだから子供だった顔が大人びたものになっているのは当たり前に過ぎる、しかし何ださっきまでまったく動く回数を変えなかった心臓が大きく一度、脈打っている。こいつがいつかこうして俺の前へと現れることは俺にとって当たり前のことだったずっと、こいつが俺を党の連中を召抱えてやるからちょっと待ってろと出て行った時からずっとだから、驚いているわけではない。ただ、ちりと肌が違和感へ触れたようなそんな。



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