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□狐は再来せし
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 嫌な予感が、最初からしていた。
宇喜多からの使者、この単語に嫌な予感を感じない筈もなく宇喜多からの使者ただ聞いただけで、頭に一瞬で浮かんでしまう顔があるからだから。嫌な予感がしていた。
 藤吉郎様に使者を迎えに行くよう命じられたその時にはもう、
「虎之助君、歩くのはやいわー」
 あああ、してたんだよ畜生!
「馴れ馴れしく呼ぶな!」
 一刻も早くこの使者と離れたくて地面を踏みしめてた大股の足を、一歩踏み出したまま振り返った俺の視界に映る宇喜多からの使者。供回りも何も付けず羽柴の陣近くにやってきたこの男の特徴を挙げるとするならば、右耳の下で括った中途半端な見てると苛々してくる長さの髪、何考えてんだか腹の中がさっぱり見えないこれも苛々見てるとしてくる狐目全体的に細面な顔すら妙に腹立ってくるし、性格は一度しか会ったことのない俺ですら最悪と言い切れる使者の特徴。
 むしろ、あいつだ、あいつだったんだ。
「せやかて、それが君の名前やろ?せやったら、虎之助君やん」
「名字で呼べ」
「嫌やわ、おもんない」
 面白い面白くないの問題じゃないだろうが。
小西弥九郎、今は魚屋とか名乗ってるんだか知らないがとにかく藤吉郎様が中国経略を大殿様に命じられる前に会ったことのある、そいつ。前に会った時と全然変わってない。ふざけててへらへらしてて不快で不愉快で今すぐにでもまた唇を皮が剥ける位に強く擦りたい衝動に駆られる、最悪だ最悪だ最悪だ。
「ふざけんな。今すぐに俺があんたのこと叩っ斬っていないだけ、ありがたいと思え」
「あらー、ボク君にそないなことされるような覚え無いんやけどねぇ。思い違いちゃう?」
 やばい、こいつ今すぐにでも切り伏せたい。
鯉口を油断すると切ってしまいそうな切った次の瞬間には、今振り返っている先でへらへら笑ってる狐目男を切り伏せてしまいそうな衝動に鯉口へ伸びかける腕を抑える代わり、奥歯をぎりとかみ締める。長浜城下で帯びていた刀の鯉口を切りかけていた時には丁度藤吉郎様が出てきて俺のことを止めてくださった。でもだけど、今藤吉郎様はここにはいないし人気の多くなる陣の中心まではまだあるし、本気でこれ以上こいつと話してると切りかかるんじゃないのか、俺。
 俺は忘れたことなど無いのに。あの屈辱も嫌悪も全部全部。
奥歯と奥歯が擦れ合う気持ち悪い音が頭の奥で一層苛立ちを煽って来るのも、必死に堪えて俺。
「もし、……思い違いだったら吐きそうになるの堪えて、笑顔であんたと話してやるよ」
 そうだこいつは一応使者なんだ。殺傷沙汰にでもなったら大変なことになる。落ち着け堪えろ我慢しろ。
「そんなら、もっとにこーって笑うてや、虎之助君」
「思い違いじゃないから言ってるって分かれよ!それから、馴れ馴れしく呼ぶな!」
 常に限界ぎりぎり一歩手前にかかとが掛かってる状態でも、だ。
「あかんねぇ、ほんま覚えないし。虎之助君て呼ばんと、おもろないし」
「覚えてないなら、もう黙ってろ。それなら名前も呼ぶ必要無いだろ」
「虎之助君て、細かい子ぉやねぇ」
 堪えろ堪えろ堪えろ。
擦れ合わせた奥歯と奥歯の間から思いっきり息を抜いた俺は、振り返ってた顔を前に向けなおす。そうだ、何も律儀にこいつに付き合ってやる必要なんざどこにもないんだ。さっさと藤吉郎様の元にまでこいつ送り届けて、
「寝癖ついとるよ、虎之助君」
 止めてた足をまた大股で踏みしめる。
送り届けてそうすればもう、終わり暫くこいつの顔を見ることも多分、無い。何もかもが暗がり一色に飲み込まれる夜なら話は別でも、昼間の、それも青くこれ以上無く明るい陽光が落ちる位晴れた今なら足元の心配も何もせずに歩ける前へ、どんなに大股であっても。一刻も早く藤吉郎様の元に、俺の我慢が利く内に。
「あんねぇ、虎之助君、さっき歩くの早い言うたばっかりやーん」
 前へ前へ前へ。ざくざくざくざく、草を土を踏みしめる歩く姿勢は前傾姿勢後ろから俺についてくる足音に混じり聞こえてくるへらへらした声なんかに、誰が返事してやるか。
「虎之助くーん」
 うるさい黙れ、苛々するんだよアホ。
「加藤くーん」
 今更遅い。
所々に姿の見える兵士達が大股で歩く俺と、多分後ろを追いかけてきている小西弥九郎を横目に見たりしていてもすぐに興味を失い何事もなく視線を手元だったり、近くの人間だったりとにかく別の方向へ向けてくれている。それで良い。こんな奴相手にきりきりしてるところを興味深くがっつり見られて堪るか。虎之助君から加藤君、名字で呼んでも反応してやんなかったんだ、いい加減あの狐目男だって諦めるだろもう軽々しく声なんざかけてこなくなるだろ。
 ほら、その証拠に後ろからは何も聞こえてきやしないずっと、俺の後ろに続く足音だけが鼓膜に聞こえ続けるだけだからだから、俺の勝ちざまぁ見ろ小西弥九郎。
「あぁ、せや……、思い出したで」
 あんたは、俺が慌てふためいたり取り乱した姿見て哂いたいんだろうけどな、何言ったって無視してやるんだから意味なんてないんだ。後ろから続いてきてた草を土を踏みしめる音が鼓膜へ触れなくなっていても、どうせ振り返ったところでロクでもないこといわれるんだろって気も向けず一瞥も寄こさず一秒でも早く辿りつく為思いっきり強い一歩が土にめり込んだ。声がした。
 後ろから。笑う、哂う吐息と一緒に。声がした。
「犬や、のうなった?お虎」
 足音が聞こえなくなるどこからも、俺自身の足からも。
 振り返る口元のつり上がった小西弥九郎がいる、当たり前の事実。
「………あ?」
「無視するなんて、ひどいやん」
 にんまり、両端つりあげ笑う口がどうでも良いことをへらへらへらへら吐き出して意外だ、俺の手鯉口切ってない。切る代わり動いてた、足が踵を返してた土の欠片方向を切り返す足元で微か飛んで俺の足は大きく一歩二歩、三歩。ざりと音、立った見上げた抑えてるつもりだった腕は気付いたら動いてて向かう先は刀じゃなかったそれでも動いてる。
「覚えてんじゃねぇかよ、あんた」
 小西弥九郎の襟首を掴むために、伸ばしている。
 畜生それでも、変わらない笑みがそこにある。
「ぷふー、せやねぇ。何、お虎また接吻してくれるん?」
「誰が。あんたのこと殴ろうかどうしようか、考えてるだけだ」
「偉い偉い、一応ボクが宇喜多の屋形様からの使者やって覚えとったんね」
 当たり前だ、もしもこいつが使者でも何でもなかったら胸倉掴む前にはもう滅多刺しにしてやってる所だっていうのに。掴んだ胸倉前もこうして掴んでた。今やろうかどうしようか本気で考えていることとはまったく正反対の意味で、掴んであの時はああしたのなら、じゃあ今の俺はどうできる。こいつは宇喜多からの使者、感情を、潰せるか。ふつふつふつ一瞬あまりのことに逆に静まり返った熱が湧き上がるのを、殺せるか。
 佐吉に皮肉を言われた時だって、ここまではならないのにむしろ、聞き流せる時すらあるのに。
「さて、どないする?ずーっとここに居るわけにもいかんやろ」
 青白い血管が、胸倉を掴む手の甲に薄っすら皮膚を透かし見えた。いつもよりどこか、濃く。
「そうだな。謝れ」
「あら、殴らせろとかは言わへんのやね」
 殴りたいどころか、許されるなら刺してやりたいくらいだ。
 でも、こいつは使者腐っても使者どんだけ性根が歪んでても腸煮えくり返っても使者。藤吉郎様にとって必要な存在。
「あんた如き殴って、藤吉郎様に迷惑をおかけできるわけがないだろ」
 たった一つの理由一つだけで十分な理由口にした俺を映しているのかどうかすら曖昧な狐目を有するその瞼が僅か、本当に少しだけ引きつるように動いたように感じたのは気のせいか。気のせいかもしれない、何事もなく小西弥九郎は口をひらいてる。
 へらへら笑う顔は、変わってない。
「嫌やね」




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