BLEACH
□白薔薇の棺
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兄貴が自分の唇で、僕の口を塞いだから。
それは触れるだけの本当に軽いキスだったけれど、僕の脳を機能停止させるには充分だった訳で。
ぽかんとしている僕を抱きしめて、耳元で帰ったらお茶の続きををしようと囁いた後「じゃ、行ってくる」と云って兄貴は歩いて行った。
それが、別れのキスのような気がして。
別れのことばのような気がして。
気を紛らわすために僕は研究室へ足早に戻ることにした。
それなのに。
あの時、どうして僕は兄貴を引き止めなかったのだろう?
どうして…─────
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『現世からの帰還要請受理』
『統括官様、No.6十刃様両名の帰還を確認。破面5体の敗死を確認いたしました』
『敗死破面5体───エドラド・リネオス,シャウロン・クーファン,ナキーム,ディ・ロイ,
イールフォルト・グランツ
以上です』
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『帰ったら、お茶の続きをしよう』
「…嘘つき。」
兄さんの、ばか。
お茶の続きなんて、出来ないじゃないか。
兄さんの宮は灯りが落とされ薄暗くて、調度品は全て処分されていた。あるのは、部屋の中央にある棺だけ。
真っ白な薔薇の花弁が敷き詰められたその冷たい匣に、兄貴は横たわっていた。躯は爛れて血塗れで、美しかった葡萄色の双瞳は淀み濁り、顔を覗き込んでいる僕でさえ何も映してはいないのだ。
信じたくなかった。嘘だと思いたかった。
けれど兄貴は死肉になって帰ってきた。全身の火傷の傷が痛々しくて生々しくて、それなのにどこか安らかな微笑みを残す兄の整ったその顔にかかった髪を指でそっとかき分ける。敷き詰められた白薔薇の甘い香りがふわりと宙に舞った。
「ねぇ兄貴、死ぬのは怖くなかった?」
返答なんて出来ない屍に、僕は昔兄貴が僕にしてくれたように語りかける。声が震えて、上手く言葉にならない。
「兄貴、僕は…兄貴とさよならなんてできっこないよ、どうして…?嫌だ、嫌だよ…」
生き返ってなんて云わないから。
せめて、あなたの最期をあなたの傍であなたの手をとって。
愛してると言わせて欲しかった。
そう、いつも兄貴が僕にしてくれたように。
そして僕は自分の唇と冷たい兄貴の唇とを重ね合わせた。毒林檎を含んで倒れたスノーホワイトの目を覚ますのは王子様のキス。だけど、僕が今したのはさよならのキスだ。棘の魔法を解くことはできないし、眠り姫の瞼は開かない。血の気のないその唇はまるで永遠に融けることのない氷のようで、あまりの冷たさに僕はぞっとした。
もう、兄貴はここにいないのだ。あの頬をつつく仕草も、下手くそな子守歌も聴くことができないのだ。そう思うと、不意にぽたりと涙が落ちた。透明な雫は兄貴の頬にぽろぽろと零れ落ち、血糊をゆっくり溶かしながら流れていく。その涙は僕のものなのに、何故か兄貴が流す涙のように見えた。
『ザエルアポロ様、お時間でございます』
ざり、と音がした。葬送部隊だろうか、数名の破面が入り口に立っていた。彼らは皆棺を外へ運ぶ役割を受け持っている。それを命じたのは藍染様だ。棺が運ばれるのか僕は知らない。まっ白なこの宮殿にどこか墓場があるのかもしれないし、メノスたちの餌になるのかもしれない。本当ならば兄貴をホルマリンの海へ沈めてずっと一緒にいられるようにしたかったのけれど。そう思うと僕たちを引き離す藍染様が少しだけ憎かった。
『イールフォルト様のご遺体を、運ばせていただきます』
「……頼むよ」
仮面から聞こえる無機質でくぐもった声を聞きながら僕は棺から離れた。それと入れ替わって彼らは代車に兄貴を乗せると、僕に一礼したあと宮を出て行った。滑車が立てるガラガラという音が虚空響いては消えていった。
さよなら、さよなら兄貴。
僕はあなたを、ずっとずっと愛してる。
「 、 ───」
止まらない涙と、生前たった一度だけ口にした言葉が嗚咽になって溢れ出た。立っていられなくて、僕はボロボロの兄貴の上着を抱えてその場にへたり込んだ。
泣きじゃくる僕の唇にはまだ、冷たい兄さんの唇の感触が残っていた。