RKRN連作小説

□秘密の姫君9
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 日々諾々と流れる歳月は緩やかながらも決してその足を止めず、気付けば暦は弥生にまで差し掛かっていた。
 水温む春。
 芽吹きの春。
 寒さの厳しい冬から麗らかな陽射しの暖かい春に移るこの季節は、何気ない日常であってもどこか気分を高揚とさせる。
 庭の木々には新緑の小さな芽が息づき、飛び交う鳥の声はどこか楽しげだ。
 こんな日は陽だまりで緑茶の一つでも友にしながら読書をすると、とても気持ちが良い。
 図書室の掃除をしていた最中で、長次はそんなことを思いついた。
 今日は休日だ。
 元々折角の空き時間を全て掃除に費やす気はなかったのだし、こうなったら残りの時間は丸々読みかけの本を読破するのに使おうか、と。
 思いついてからの行動は早い。
 本と茶、更には座布団なんかもあれば完璧だと、早々に図書室の掃除を切り上げるとそれらを取りに自室へと足を向けた。
 そうして戻ってきた自室で目的の物を用意し、さぁこれから読書を始めよう、というところで。

「―――失礼致しますわ」

 障子の向こうから聞き慣れない柔らかな声が聞こえ、薄い戸がカラリと開かれた。
 突然の来訪者に驚き、瞬間的に誰が訪ねて来たのかを確認しようと入り口の方に視線をやった長次の目に映ったのは、漆のように艶やかな長い髪を桜色の髪紐で結い、肌理の細やかな美しい白い肌が目にも眩しい―――大和撫子という言葉を体現してみせたかのような女性だった。
「………、………。」
 何の用ですか、とか。
 あなたは誰ですか、とか。
 言いたいことはそれなりにあった筈だが、生来の口下手も手伝って結局まともな言葉は何一つ出てこない。
 そんな長次を見て、先に口を開いたのは女性の方だった。
「つかぬことをお伺い致しますが…」
 彼女はにこやかに笑って言葉を紡ぎだす。
「此方に…七松小平太様はいらっしゃいますか?」
 問われた内容を頭の中で二、三度繰り返し、漸く長次は硬直から立ち直った。
「…いえ、…今は…外出中かと…」
「まぁ…では、お戻りになるまで待たせて頂いても宜しいですか?」
「…ああ、…構わない……どうぞ…」
 取り敢えず戸の外に佇んだままの女性を部屋へと招き入れ、それからはまた何とも息苦しい沈黙が続く。
 たっぷりと間を取って絞り出た言葉がたったあれだけなのが何だか情けなかったが、正直に言ってしまうと突然現れた謎の来訪者を前に、長次の頭は軽い混乱状態になりかけていた。
 一体何者なんだろうか、この女性は。
 小平太の行方を尋ねたところをみると彼の―――いや、彼女の客なのだろうが、しかし。
「あの…失礼ですが、…あなたは…」
 長次が躊躇いがちに口を開くと、女性は慌てて居住まいを正した。
「申し訳ございません、申し遅れてしまいました。 …私、名を大幸 百合乃(おおさち ゆりの)と申しまして、小平太様とは将来を誓い合った仲ですわ」
 正座したまま三つ指をついて頭を下げる姿は如何にも品が良く、百合乃と名乗った女性の気立ての良さを表している。 
 …ではなくて。
「…将来を、誓い合う…?」
「はい、小平太様が十五になってこの学園を卒業されたら、祝言を挙げる約束をしておりますの」
 がん、と。
 長次は後頭部を巨大な鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
 確かに祝言という言葉が聞こえたが、それは通常男女の間で結ばれるものであった筈だ。
 それともまさか、小平太の父である七松家の当主は本気で娘に息子の代用品として女同士での婚姻を結ばせる気なのだろうか。
 長次が言葉を失くしていると、廊下からドタドタと元気の良い足音が聞こえてきた。
「ちょーじ! ただい、ま―――…」
 例によって塹壕でも掘ってきた帰りなのか、土に塗れた小平太はそんなものは気にも留めない様子で勢い良く障子戸を開け、そしてそこにいた人物を見て見事に動きを止める。
「ゆ…ゆゆゆ、百合乃…!!?」
 百合乃の存在を確認した途端、小平太は面白いくらいに動揺した。
「はい、小平太様!」
 対する百合乃は、胸の前で手を組んで瞳を輝かせている。
 その頬はうっすらと赤く染まり、小平太を心から慕っているのだと一瞬で手に見て取れた。
 今や名立たる武家や侍の家系では、政略結婚という名の望まぬ婚姻が平気で繰り返されるこの御時世に、こうして想う人と結ばれる未来が約束されている彼女はさぞや幸せなんだろう。
 と、長次が呑気にもそんなことを考えかけていたときだった。
「な…何でお前が此処にいるんだ!?」
 小平太が、珍しくやや険のある声で百合乃に詰め寄る。
「お前とは…私は祝言は挙げんと言ったろう!?」
 そして何と、先程百合乃が口にした“将来を誓い合う”というものを、はっきりと否定したのだ。
 けれど百合乃は涼しい顔で、悲しむどころかその顔に浮かぶ表情は挑むような強かさを持っているように見える。
「何をおっしゃいますの、小平太様。 それでは、小平太様は私にしてくださった結婚の約束を違えるおつもりですか?」
「約束って…もう随分前の話だろう! 何年前だ!」
「九年前ですわ」
「そんなもの、時効だ! っていうかこの前の冬休みで帰省したときに、忘れろって言ったろう!」
「それが納得出来ないからこうして馳せ参じたのです!」
 百合乃は背筋を伸ばし、凛とした声で告げた。
「小平太様、どうして急に心変わりなさったのですか? 私なら、貴女の事情も全て理解し、受け止められます。 一体何が不満なんですの?」
 先程とは一転、今度は百合乃が小平太を問い質そうと膝を寄せる。
「何って…だって…」
 小平太は咄嗟に上手い言葉が見つからず、視線で長次に助けを求めた。
「………、いや…」
 しかしそんな視線を投げられても、長次にはさっぱり事情も事態も見えていない。
 話の内容からすると、この二人が四つの頃からの幼馴染で、子供ゆえの無邪気さで結婚の約束をしていたが、今になって小平太がそれを拒否している、という流れだ。
 だが、これでは細かな事情までは分からない。
 特に、小平太が百合乃を拒絶する理由が不明だった。
 見た限りではこの百合乃という女性に目立った悪癖のようなものは見受けられないが、その実とんでもない性悪であったりするのだろうか。
「それとも小平太様、まさかこの百合乃を差し置いて、心を通わせた方でもいらっしゃいますの?」
 百合乃の言葉には、そんなことがある訳が無いという確信が潜んでいた。
 百合乃は恐らく、小平太が本当は『小夜』という女性であるということを知っているのだろう。
 同時に、それが本来なら他の誰にも知られてはいけないことであるということも。
 そんな秘密を抱えた状態で、心を通わせることなんて出来る訳が無い。
 そういった確信があったからこそ、百合乃は小平太に質問を投げかけたのだ。
 だが。
「ああ、いるとも!」
 小平太はこの上なく大きく頷いた。
「…何ですって?」
 百合乃の声に、ここにきて初めて剣呑とした響きが混じる。
「………。」
 傍観していた長次は、嫌な予感を感じていた。
 多分というか何と言うか、小平太が頷いて見せたのは単なるハッタリに過ぎないと、長次には瞬時に見抜くことができた。
 恐らくは百合乃を追い返す為の嘘っぱちなのだろう。
 しかし、この手の女性は大概、こういう状況になるとやっかいな決まり文句を言い出すのだ。
「でしたら、今すぐその方を此方にお連れして、恋人同士なのだという証拠を見せて下さいませ!!」
 ほら、でた、と。
 長次は百合乃が自分の予想通りの言葉を吐き出すのを、頭が痛くなるような思いで聞いていた。
「しょ…証拠っ?」
 案の定、そこまで考えていなかった小平太の声が情けなくひっくり返る。
「ええ、この学園にいらっしゃるのでしょう? 小平太様のお相手に相応しいかどうか、私が見極めて差し上げますわ!」
「いや、あの…」
「さぁ、お早く!!」
 物凄い剣幕で迫られ、小平太は再び困ったように長次に視線を送った。
 その顔には『助けてくれ』という文字がくっきりと浮かんでいる。
 ―――こうなっては仕方がない。
 適当な人材を連れてきて恋人同士のフリでも何でもさせなければ、百合乃は日が暮れても此処に居座るだろう。
 長次は静かな嘆息を落とすと、『適当な人材』を調達するべくそっと部屋を出た。

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